片手で創作するということ〜目覚めてからの試練その1

目が覚めた後

オハイオ州トレド、セントヴィンセント病院。

死を覚悟するほどの長い昏睡状態から覚めた妻は、ICUを出て一般病棟に移って安定を待ちました。

どんなリハビリをするべきなのか、病院側の準備が始まりました。

失語症で言葉が全く出てこなくなっていたのと、私の言うことも全く理解できない状態でした。

系列のリハビリ系病院から派遣されてきた理学療法士(PT)が、寝たきりの妻をベッドの上に座らせようとしました。

右半身が完全に麻痺していたので体を支えることができず、崩れるように右側に倒れ込んでしまいました。

妻の目から大粒の涙。

不安な気持ちを悟られまいと努めて笑顔で接していた私も、耐えきれずに一緒に泣いてしまいました。

辛さを言葉にすら出来ない妻に感情移入して、大人気なく泣きました。

入院中の日々

病院に併設された家族用アパートメントに子供達と滞在して、毎日毎日妻の元に通ったのでした。

隣にヘリポートがあって、毎日毎日ヘリで患者が運ばれてくる。

ヘリの音を聞くたびに、運ばれてくる患者の家族の気持ちを思って、心がザワザワと揺れる。

アパートメントから病室に渡る長い廊下の横に教会がある。

入院患者の回復を祈る家族がいる。

その先に救命があって、5台以上の救急車が常に止まっていたり、患者を降ろしていたりする。

その先には入院している子供達のための学校があって、一瞬ほっこりする。

そして妻の待つ病室へ。

運ばれてから3週間で退院して、系列のリハビリ施設のある病院に転院。

車椅子にも乗れず、ストレッチャーに乗せられて病院の救急車で移動。

私の頭はずっとフリーズ状態だった気がします。

一変した人生

転院したリハビリ病院で1ヶ月の入院を経て、在宅リハビリに。

車椅子に乗っての退院でした。少しだけ回復。

失った言葉は数パーセント回復。

嚥下障害がひどくて水にとろみをつけないと飲めなかったのも克服。

入院中につけた胃ろうは外されないまま、大量の薬と共に自宅回復へ。

何もかも辛かったけれど、言語聴覚(ST)が英語で行われる事は痛々しくて見ていられなかった。

後遺症で日本語さえも全て吹っ飛んでいたのだから、英語やフランス語が出る筈もなく時間だけが過ぎる感じ。

遠隔での指導などまだまだの時代。

八方塞がりの状態は自分達で何とかするしかなかったのです。

フリーズしていた頭が少しずつ溶け出して、日本でのリハビリを強く意識して調査開始。

家内の生まれ故郷が九州なので、九州で良い病院がないか?

その頃少しだけメディアに登場していた鹿児島大学の川平教授が提唱する【川平法】という脳卒中からのリハビリ。

何度も電話をして取り次いでもらって、「入院できるか保証できないけれど、診察を受けに来なさい」っておっしゃっていただいて。

家族会議(妻は何を喋っているのか理解できなかったから実質3人で)で以下を決定。

  • パパはアメリカでの仕事を諦める
  • 日本でどうやって食べて行くか不安だけど今はママ最優先
  • ママの実家の近くに部屋を借りよう
  • 長男は日本で言う高校1年、娘は中学1年で充実していたけれど日本に転校
  • 鹿児島大学附属霧島リハビリテーションセンターに入院させてもらう(目標)

こんな感じで、家族で力を合わせてママ優先の人生を選択したのでした。

医療費が凄ーく高くて、ん千万円。手出しがね。残り僅かな所持金を手に帰国をしたのでした。

今日はここまでにしておきます。弁当作らないと。

マスクの製作風景〜片手でゆっくり作ります

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