左手の法則〜家族総出の絆作戦

フレミング左手の法則?

左手の法則をネットで調べてみると、フレミング左手の法則が大手を振って主張しています。

文系の方々にはあまり馴染みがないか、遠い記憶の中に潜んでいるくらいだと思います。

どうやら迷路必勝法に『左手の法則』というのがあるようで、迷路の壁が入口と出口でしか切れていない場合のみ有効だと書かれています。

フレミング左手の法則も迷路必勝法も今日のテーマとは違います。

あしからず。

逃げ場のない法則

私の家族は右半身麻痺の妻と、5体満足な息子と娘。

10年前に妻が脳出血で倒れて、利き手だった右側が全滅になったため、左手を使う訓練を受けました。

不安になったのは、訓練をするOT(作業療法士)の先生が右利きで、自分では左をうまく使えない事。

せめて左利きの先生がいてくれればいいのに!!なんて思いながら付き添っていました。

自分でできないことを人に教えられるのか?

悶々としていました。

ある時名案が降りてきました。

善は急げ!!!!

子供達に『今日から我が家は右手禁止にしよう!!』と言いました。

必死に頑張る母親を見ていて、思うところがあったのだと思います。

全会一致で可決!!

利き手と違う側で箸を使ったことありますか?

利き手と違う側で字を書いたことありますか?

『あー、絶対無理!!』ってなったと思います。

ほとんどの方々が。

私もそうでしたからわかります。

普通なら、あっさり挫けて何も無かったかのように右手での生活に戻る事でしょう。

『左で箸を持つ意味ないし!!』なんて捨て台詞はいて。

でも、右半身麻痺の妻にとっては逃げ場がない。

左手が使えなければご飯も満足に食べられない。

アメリカでリハビリを始めた頃、嚥下障害がひどくて水を飲むと気管に入ってしまうから水にとろみをつけるんです。

美味しい水を思いっきりゴクゴク飲ませてあげたいって思った。

その時と同じ気持ち。

しっかり箸を使って美味しいもの自分で食べさせたい。

本人だって必死です。

そんな妻(母親)を横目で見て『ギブアップ』できる筈がありません。

だから我が家の『左手の法則』は『逃げ場のない法則』です。

逃げ場がなければやるしか選択肢がないから結局できる。

毎日12時間くらい練習して2ヶ月半くらいかな?

『左手の法則』=『逃げ場のない法則』=『1000時間の法則』

なんだあ、結局同じことだったわ〜。

メリット満載でした

結果はどうかって?

全員左手でご飯食べてます。

違和感なく。

『まあ、全員左利きなんて珍しいねー』なんてよく言われます。

大リーグボール養成ギブス(古くてごめんなさい)なんて必要なくて、妻の存在が左手使い養成ギブスでした。

人間、逃げ場が無くなれば何でも出來るようになるんですね。

逃げ場がないからできるまでやる。

できるようになるに決まってる。

自信に繋がりました。

左でも右でも箸をもったり字を書いたりするメリットは

  • スペースに余裕のある方側の手でゆったり食事ができる
  • 左右自由自在にハサミが使える(持ち替えて)
  • 右手でスマホ持って左手でご飯食べられる(子供達は真似しないでね)
  • 両手を満遍なく使えるので手が疲れにくい

そして特筆すべきは

  • 記憶力が良くなった

です。

なんで?

右脳と左脳

ご説明します。

この効果を狙って左手使いになったわけではありません。

でも、明らかに変わりました。

右脳派と左脳派。

聞いた事ありますよね。

基本的には右脳が強いか?左脳が強いかという事なのだそうです。

人間の基本は右脳での行動です。

悲しい時は泣いて、楽しければ笑う。

左脳が発達すると知的な思考が出来るようになります。

文字を覚えるのは右脳。

意味を理解するのは左脳。

本を読んで情景が浮かぶ人は右脳が強い。
何事も簡潔にまとめる事が出来る人は左脳が強い。
右脳左脳を交互に使う事ができれば、両方が手に入るというわけです。

体と脳は左右入れ替わっているので、右手をよく使っていると左脳が刺激されます。

そう、意味を理解する方です。

左手を使うようになったら右脳が刺激され出したんですね。

記憶力がかなり良くなった。

12桁の免許番号や16桁のクレジットカード番号はあっさり覚えられる。

数字を見ながらPCに入力するときに、数回に分けて入力していたのに、今は全桁を一気に入力できる。

左手で箸を使ってみてください。

ボケ防止に効果あると思いますよ。

絆作戦

結局絆作戦は上手くいきました。

でも、励まされたのは妻の方ではなくて、我々家族。

応援していた方でした。

全員左手で食事をしているのを見ると、ちょっとだけ誇らしい気持ちになります。

こいつらやるな!!

片手で創作するということ〜目覚めてからの試練その2

鹿児島大学霧島リハビリテーションセンター

大学病院は紹介状がないと原則受け入れてくれません。

風邪をひいても大学病院にかかられてしまっては、本当に大学病院を必要としている人に医療が行き渡らないからです。

アメリカの病院から日本の大学病院に紹介状を書いてもらうことはできません。

なので、最初は難色を示されました。

今迄の症状、治療内容、各種画像をもらって、それを持参する約束をして何とか外来での診察が許されました。

ただし、川平先生の診察を受けるに値するのかを判断する診察。

大分県の妻の実家近くに借りた古民家に子供達を置いて、車椅子を積んで霧島に向かいました。

朝早い診療だったので、霧島温泉に1泊。

この病気になってから高血圧になってしまって、薬を飲んでも150を超えることが多くて心配していましたが、一時的でも温泉に入ると血圧が120くらいに下がる。

本当に久しぶりに見た安心の数字でした。

豪華な食事が出されましたが、何を食べたのかはあまり覚えていません。

『何とか受け入れてほしい』そればかり考えていましたから。

霧島リハビリテーションセンター(2018年、本院に機能移転)

退院してみれば4ヶ月も入院させていただいていました。山を降りた鹿児島空港近くのマンスリーアパートを借りて通って、毎日朝から晩まで付き添いました。

作業療法、理学療法、言語聴覚士による言葉のリハビリ、視野欠損のリハビリ、磁気刺激治療法、装具審、自主トレーニング等々。

日本全国から作業療法士や理学療法士が学びにやってくる病院でした。

毎夕行われていた川平教授による講習会。休みの日にも病院に出てきて指導にあたられている。熱い先生なのです。高校時代ラグビーで花園に出たそうです。

私は子供達のいる大分県と行ったり来たりしながら、必死にやってました。無収入の不安に押しつぶされそうになりながらでした。

『なんとかなるさ』

まずは家内の事だけを考えるようにしていました。

頭フリーズによる失敗

ひとつ申し訳なかったエピソード。(まだアメリカにいる時の話)

時間が大きく遡ってしまいますが、家内のことばかり考えていてやっちまった失敗の話です。

倒れたのが1月17日で、リハビリ病院を退院したのが3月でした。その後自宅に戻ってPTの先生が来てくれてリハビリ。

私はというと、大きく穴を開けた仕事の繕いをしながら、日本でのリハビリや住まい探し、100枚以上あった請求書の処理。

救急車1,000ドル(約10万円)とか。装具代3,000ドル、最初にかかった病院(転院前の入院なし)代3,500ドルとか、

まあ、入院していた病院の詳細合計(値引き前450,000ドル)を見てしまっていたので麻痺状態でしたけど。

何はともあれ客観的にものを考えるなんぞは不可能状態。

子供達も傷つき苦しんでいたことは分かっていたけれど何もできずでした。

忘れもしない4月21日。

例によって支払いやら、薬の調達やら、室内リハビリやらで頭がいっぱいの夜に娘が急に泣き出しました。

堪えきれずに泣き出した感じ。

聞いてみると娘の誕生日。

すっかり忘れていて、娘も理解していたようなのですが悲しくなってしまったようで。

辛かったのは家族全員なのに、父親失格!!

急いで娘を連れて近くのモールに行き、ほしい服を沢山買ったのでした。

何かの縁でしょうか?

霧島リハビリテーションセンターに関しては、3つ不思議な事がありました。

偶然ではないと思いますが。

ひとつ目は、家内の従兄弟はすごく腕の良い美容師で、六本木でバリバリやっていた人なのですが、鹿児島の女性と結婚が決まって、その方の実家で暮らしていると聞いていました。

なんと、私が借りていたマンスリーアパートの目と鼻の先。

鹿児島って広いのに、こんなに近くだったなんて。

空港近くのホテルで結婚式が執り行われた時、病院の許可をもらって外出して祝福に駆けつけました。

六本木でバリバリの美容師でしたから、この町では有名だったようで、病院の看護師の方や、言語聴覚士の先生と奥様も常連様でした。

家内の髪を切りに病院まで来てくれて。

こんな近くに引き寄せられてきたんだと、驚きました。

ふたつ目は、脳卒中後疼痛(この話も沢山あるので書く予定です)に悩まされて、ドクターショッピングや、漢方医、怪しい宗教や、次からつぎへとやってくるMLMの紹介、整体、痛みを中和する電極挿入、YNSA(頭に打つ鍼)、気功etc。

少しでも良くなる方法を求めて探しまくっていたのですが、YNSAと気功は相性が良くて長く通っています。

YNSAに関してはそれ専用に書きたいと思っています。

気功の先生は目が見えません。

ある方の紹介を受けて通っていました。

目が見えなくなってから自分の力に気づいたそうなのですが、行く宛もなく日本中を彷徨って、何気なくたどり着いて気功の技を取得した場所が霧島だとおっしゃるのです。

その場所を調べてみると、霧島リハビリテーションセンターのすぐそば。

私が病院からアパートに帰る途中に買い物をしていた小さな雑貨屋さん(一応スーパーと書いてあった)の裏。

何じゃそれ?って感じでした。

引き寄せられてるでしょ。

3つ目はつい1年前のこと。

時は流れあれから10年近く経ってしまって。

私が通っていたジムにパワープレートが導入されました。

何が良いんだかいまいち分からない。ただのバイブレーションマシン?

ある日、時間ができたのでジムに行くと、『2時間後にパワープレートの担当者がプレゼンにきますよ』って教えてくれて、何気に家内に良いのではと思った私は『会員ではないですが、家内に聞かせたい』というと、快くOKしてくれました。

担当の方は一生懸命パワープレートの良さをアピールしてくれて、沢山の医療関係者の推薦もあるのですと。家内に沢山体験させてくれて。

下記はアフェリエイトではありません。効果を実感したから載せています。

先生ごとにパンフが作られていて、何とその中に川平先生がいらっしゃいました。

渋谷で川平先端リハラボというパーソナルリハビリみたいなことをされていました。

早速予約をして、川平先生にお会いしてきました。ギリギリコロナ前の出来事です。

今我が家にパワープレートがあります。

ピンポイントで目の前に現るんです。

色々な偶然が。

偶然ではないと思ってますが。

まだまだ創作に行きつかないですが、今日のところはこの辺でおしまいにいたします。その3に続きます。

昨日と同じ動画をアップさせていただきます。

片手で創作するということ〜目覚めてからの試練その1

目が覚めた後

オハイオ州トレド、セントヴィンセント病院。

死を覚悟するほどの長い昏睡状態から覚めた妻は、ICUを出て一般病棟に移って安定を待ちました。

どんなリハビリをするべきなのか、病院側の準備が始まりました。

失語症で言葉が全く出てこなくなっていたのと、私の言うことも全く理解できない状態でした。

系列のリハビリ系病院から派遣されてきた理学療法士(PT)が、寝たきりの妻をベッドの上に座らせようとしました。

右半身が完全に麻痺していたので体を支えることができず、崩れるように右側に倒れ込んでしまいました。

妻の目から大粒の涙。

不安な気持ちを悟られまいと努めて笑顔で接していた私も、耐えきれずに一緒に泣いてしまいました。

辛さを言葉にすら出来ない妻に感情移入して、大人気なく泣きました。

入院中の日々

病院に併設された家族用アパートメントに子供達と滞在して、毎日毎日妻の元に通ったのでした。

隣にヘリポートがあって、毎日毎日ヘリで患者が運ばれてくる。

ヘリの音を聞くたびに、運ばれてくる患者の家族の気持ちを思って、心がザワザワと揺れる。

アパートメントから病室に渡る長い廊下の横に教会がある。

入院患者の回復を祈る家族がいる。

その先に救命があって、5台以上の救急車が常に止まっていたり、患者を降ろしていたりする。

その先には入院している子供達のための学校があって、一瞬ほっこりする。

そして妻の待つ病室へ。

運ばれてから3週間で退院して、系列のリハビリ施設のある病院に転院。

車椅子にも乗れず、ストレッチャーに乗せられて病院の救急車で移動。

私の頭はずっとフリーズ状態だった気がします。

一変した人生

転院したリハビリ病院で1ヶ月の入院を経て、在宅リハビリに。

車椅子に乗っての退院でした。少しだけ回復。

失った言葉は数パーセント回復。

嚥下障害がひどくて水にとろみをつけないと飲めなかったのも克服。

入院中につけた胃ろうは外されないまま、大量の薬と共に自宅回復へ。

何もかも辛かったけれど、言語聴覚(ST)が英語で行われる事は痛々しくて見ていられなかった。

後遺症で日本語さえも全て吹っ飛んでいたのだから、英語やフランス語が出る筈もなく時間だけが過ぎる感じ。

遠隔での指導などまだまだの時代。

八方塞がりの状態は自分達で何とかするしかなかったのです。

フリーズしていた頭が少しずつ溶け出して、日本でのリハビリを強く意識して調査開始。

家内の生まれ故郷が九州なので、九州で良い病院がないか?

その頃少しだけメディアに登場していた鹿児島大学の川平教授が提唱する【川平法】という脳卒中からのリハビリ。

何度も電話をして取り次いでもらって、「入院できるか保証できないけれど、診察を受けに来なさい」っておっしゃっていただいて。

家族会議(妻は何を喋っているのか理解できなかったから実質3人で)で以下を決定。

  • パパはアメリカでの仕事を諦める
  • 日本でどうやって食べて行くか不安だけど今はママ最優先
  • ママの実家の近くに部屋を借りよう
  • 長男は日本で言う高校1年、娘は中学1年で充実していたけれど日本に転校
  • 鹿児島大学附属霧島リハビリテーションセンターに入院させてもらう(目標)

こんな感じで、家族で力を合わせてママ優先の人生を選択したのでした。

医療費が凄ーく高くて、ん千万円。手出しがね。残り僅かな所持金を手に帰国をしたのでした。

今日はここまでにしておきます。弁当作らないと。

マスクの製作風景〜片手でゆっくり作ります

家内が片手で作ってくれたカメラケース

ほんと、宝物です。

ひとりで片手で一生懸命に。

嬉しくて投稿します。

脳出血で倒れて10年が経ちました。

頑張っているのだけれど右手が動きません。

それでもめげずにこんながま口を作れるようになったと思ったら、それだけでは満足できず革細工に挑戦です。

それだけでした。

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