看護師の偉大さについて

記憶を辿る

書こうと決めて自分の経験を紐解いていくと、辛かった記憶に対して無意識に蓋をしていた事が手に取るようにわかります。

記憶を呼び出すためにMindNoteというアプリを使って、断片的な情報を整理していきます。

蓋を開けてしまうと、その当時の生々しい記憶が蘇って、その場に戻ったように当時の思考に感情移入してしまいます。

10年前の1月に家内がアメリカの田舎町で脳出血を発症したのですが、発症時の記憶ではなくICUでの記憶を辿ります。

病院で診断された時の話や、桁違いの医療費請求、子供達と寄り添いながら祈った事、家内に任せっきりで何もわからなかったこと、義父、義母の緊急渡米に際してのパスポート緊急発行、私の母に手伝いに来てもらったこと、心優しいアメリカ人の家内の友達の話など、溢れるように思い出されます。

今日はICUでの出来事(の一部)です。

ICUには2週間入っていたので、この話題だけでも何本も書けてしまうほどのエピソードがあります。

家内を救ってくれた看護師のお話をさせてください。

昏睡状態

近くの病院では手に負えなくて、トレドという街の大きな病院に到着したときには、既に家内の意識はありませんでした。

お金を持っているのか聞かれたのは覚えています。無いって言ったら放り出されそうで怖くて、yesって答えました。

かなり危ない状態で、意識は無くなったままの状態がしばらく続くか、最悪の事も覚悟が必要だと言われました。

220くらいに上がった血圧をコントロールする措置が取られ、説明された理由は理解できませんでした(語学力の問題で説明の内容ではありません)が手術はできないと言われました。

脳出血にかかった身内や知り合いがいなかったこともあって、知識が全くなくて困りました。

スマホの時代ではなかったので、情報も取れずでした。

今思うと、目の前で愛する家族が生死を彷徨っている時に、冷静に病気について調べる精神状態ではなかったのは確かです。スマホを持っていても調査出来なかったと思います。

既に通算12年以上と海外生活は長かったのですが、この時ほど海外に住んでいることを後悔したことはありませんでした。

海外移住の話なんかが話題になりますが、いつかネガティブなことも知らせたいと思っています。良い話ばかり聞いて実行して後悔するのはよくないと思うから。

話を戻します。

昏睡状態は4日間続き、5日目の朝の出来事でした。

1日に1回だけ顔を出す担当のお医者さんが病状説明の中で『簡易人工呼吸器だと口から感染リスクが高まってしまうし、まだ暫く今の状態は続くので今日中に喉に穴を開けてきちんとした人工呼吸器を装着すべきだ』と。

頼み込んでICUに居させてもらって、できる限り長い時間家内に付き添っていたので、素人ながら快方に向かっていることを感じていました。もちろん昏睡状態のままでしたが。

その日は金曜日だったので、週末に急変でもされたら厄介だから急いだのかもしれません(私の主観です)。

『週末に何かあっても文句言いません。だから喉に穴を開けるのは月曜まで待ってください』そう言いました。

喉に穴を開けて助かった人が、後々塞がるまで辛い思いをすることは知っていました。自分にとって大きな賭けでしたが、1日に1回しか生身の家内を見ていない先生より、ずっと近くにいる自分の方が正しいとも感じていました。具体的には何のアイデアも無かったのですが…。

医師はこう言いました。

『わかりました。でも2、3日でよくなる事はないよ』

看護師の英断

担当の看護師がその日の夕方にやってきて、『今日から呼吸器を外すトライアルをするわよ。先生の許可は取ったから大丈夫!!』

私と医師の会話を聞いて、応援しようと思ってくれたそうです。看護師は医師と違って、患者密着なので、私と同じ感覚を持っていたそうです。

まずは鼻に通された管をゆっくりと抜く作業をします。

別の看護師がモニターを注意深く確認します。アメリカでは、看護師に与えられた権限が大きいので、常に判断をしていきます。頼り甲斐があります。

管を抜き終わる寸前に、大量の鼻血が湧き出るように流れ落ちました。驚くほど大量で、とんでもない事になりそうな不安な気持ちでした。

ところが、家内が苦しそうに目を開けたのです。

昏睡状態から抜け出したのです。

脳内に大量に溜まった血が行き場を求めていたところ、鼻の粘膜が切れて流れ出たようでした。

家内の意識は朦朧としていましたが、間違いなく意識が戻ったのです。

その後、沢山の辛い現実に遭遇していきますが、今日のテーマは看護師の偉大さ。

常に患者と家族の近くで力強く見守ってくれているのは看護師です。家内は看護師の英断に救われました。

医療従事者の方々ありがとう

コロナ禍で医療従事者の方々は戦っておられます。医師が脚光を浴びますし、それは正しい姿なのだと思います。

でも、看護師ももっと注目されるべきだと思います。

知りもしないで要らん事は言えませんが、アメリカでは看護師に権限が沢山与えられている代わりに、給料も高いです。

学卒でなければ看護師にはなれないし、ステイタスもある仕事です。

家内が入院していた時に感じたのですが、看護師には残業がありません。手厚いシフトが組まれて、与えられた時間に精一杯仕事をして次のシフトに渡す。

ミスが許されない仕事だから、疲れを繰り越さない。

判断が要求される仕事だから、疲れを繰り越さない。

コロナ禍では違うかもしれません。間違っていたらごめんなさい。

家内の近くで眠らない私に『先は長いわよ。眠らないと頑張れないよ』と言ってサンドイッチを差し入れてくれた看護師の優しい笑顔を忘れません。

先生、セラピストのみなさま、そして看護師の皆様。本当にありがとう。感謝しています。

安く満足するにはパスタもイタリアンも寿司さえも自分で作るしかない

山あり谷ありの人生を歩んでいると、それはそれは様々な経験をすることになります。

ジャンルも多岐にわたっています。理由は簡単で、望んで経験するというよりは必要に迫られて経験する方が圧倒的に多いからです。

学生の頃、小僧寿しで握りや巻き寿司を作るバイトをしていました。やりたかったわけではなく、時間の融通がつくバイトがこれしかなかったから。

でも、ご飯炊きから酢合わせに至るまでのシャリ作りの全て、握り、太巻、細巻などの巻きも出来るようになりました。だから何だ?って感じなんだけれど、こいつが役に立つ日がやってくるんです。

時期は被っていないけれど、デニーズのキッチンでもバイトやってて、包丁さばきとか卵料理が上手くなった。ソースの味付けなんかはしないけれど、綺麗に盛り付けるコツとかセンスは磨かれるのです。

1000時間の法則がハマるのですよ。趣味で週末にやる程度だと、なかなかレベルが上がらないし、嫌になってしまうと思うのですが、バイト代稼ぐために1日平均4時間くらい働くわけだから、一年に200日働けば800時間でしょ。あっという間に1000時間になってしまう。気がつけば体が覚えてる。

20代後半でヨーロッパに赴任になった。パリとかフランクフルトじゃなくてルクセンブルグ。

今は日本人が住みやすくなっているけれど、1991年に住み出した頃は日本料理店は2軒だったかな?

その後なんちゃって和食はできたけれど、なんちゃってです。

和の食材屋さんは当時はなかったので、月一の配達か、200km先のブリュッセルか300km先のデュッセルドルフまで買い出しです。

価格は日本の3倍くらい。西友で3パック入り68円で売っているおかめ納豆が300円くらいでした。お酒なんかも選べなくて、日本食に飢えていました。

先ず工夫したのは、現地素材で作る和食。

米はスペインで美味しい日本米を作っている会社があったから、それは普通に買える。【みのり】だったと思います。

日本から引っ越し荷物で持ってきたホームベーカリーで食パンを焼いて、粗挽きのパン粉を作る。

ポークは普通に買えるし、生食は不安だけれど卵も買える。玉ねぎも買えるわけです。醤油はローカルのスーパーでキッコーマンが買える。砂糖はもちろん。

日本から持ってきた貴重な味醂、鰹節を使ってカツ丼を作るんです。

同じ要領で親子丼も作れる。

ルクセンブルグ中央駅の近くの魚屋さんの魚が新鮮だとわかると、見立てや捌き方を勉強して、魚を下ろせるようになって(3枚おろしなんてやってくれないです)レパートリーは広がる広がる。

初めの頃は鯛なんかバラバラ事件でしたよー。

ここまでは皆できるんですけど、寿司はね😃

1000時間の法則。やり方教えるけど簡単じゃない!!

一月に1回くらいのペースで寿司パーティーやってました。

割り勘で魚買ってね。奥様達はスイーツや副菜を作ってくれたり、仕事しないお父さん達はお酒持ってきてくれて。

独自の鮨酢の配合が定まってきて、本当に美味しかったんです。

マグロなんか地中海で取れたやつを冷凍しないで空輸してくる。美味いに決まってます。トロはもちろんだけど、赤みが美味い。

初めはどのあたりが大トロで、どのあたりが中トロなんだかわからなくて。勉強しましたよ。魚屋さんに覚えてもらってたな。

鯖なんかノルウエーで取れたやつが冷凍で日本に輸出されるんだけど、生で下りてくるからシメサバも超美味いです。

パスタは、ルクセンブルグから仕事でイタリアのボローニャに頻繁に行くようになって、パスタの旨さにハマりました。

乾麺が殆どなくて、本当美味しい生パスタ。シチリア島は逆に乾麺が主流でした。蕎麦文化とうどん文化みたいな感じかな?

ここでパスタ打ちを覚えて、パスタにもハマりました。イタリアンをイタリアで学んだエンジニアです😃

強力粉は水や卵に合わせて30分もすれば馴染んでくれる。蕎麦とは比べもにならないくらい簡単なんです。今でも思い立って40分後にはパスタが出来上がっていることが多いです。それくらい簡単。

近いうちに作り方書き下ろします。

これらの経験が重なり合って私の人生が複雑になっていくのですが、このブログは『安くてうまい料理を作る』『経験から学ぶ事』『経験の仕方』『続け方』などをテーマにして書きますね。

自己紹介

皆様初めまして。パッチングワーカーと申します。ツギハギだらけの人生を歩んでいるので、パッチワークから名前をとりました。

将来に不安を感じていたり、お金に押し潰されそうだったり、大きな(そう感じる)壁にぶつかっていたり、頭がフリーズして何も考えることができなかったり、仕事が嫌で仕方がなかったり、仕事を辞めたいのにその先が怖くて踏み出さなかったり、何はともあれ今の人生が順調でないように感じている人のために書き下ろしたいと思っています。

そんな余計なお世話をなぜ私がするのでしょうか?私の今までの人生を少しだけ紹介させてください。詳しくはブログに書いてゆきます。

  • サラリーマン家庭に生まれ育ち、一般的に普通とされてきたレールに乗って人生を歩んできました。
  • 例えば、違和感も抱かずに塾に通い、公立のそれなりの高校に入学し、その後は勉強をしなかったけれど理系の大学に入学して、技術者枠で東証1部上場の優良企業に入社しました。
  • 決して優秀な部類ではなかったけれど、地方の工場に配属になってそれなりに楽しく仕事をしていました。
  • 30歳少し前に、働いていた会社が欧州に工場進出することになったことに伴ってメンバーに選ばれ、第一陣として欧州転勤が決まりました。
  • 転勤に合わせて結婚しました。
  • 決して優秀な部類でなかったことと、第一陣(工場には経験者がいない)であったことからクラクラするほど上手く行かずに苦労しました。
  • 家に帰れず、嫁さんには大変な思いをさせました。何せ、異国の地で知り合いもいない、言葉(フランス語)もろくに使えない(当時は)環境で一人ぼっちにさせたのですから。
  • 石の上にも三年と言う言葉があるように、3年も死ぬ気で頑張っていると何とかなってきて仕事が楽しくて仕方がない状態になりました。
  • 欧州初や世界初といわれる技術導入にも参加して、楽しく10年が過ぎました。
  • 2人の子供にも恵まれました。二人とも現地で出産しました。
  • 10年のうち後半5年はプロジェクトに参加して、現地の経営者たちと知り合う機会が増え、密に交流することが増えました。
  • 「大企業に入りなさい!!」といわれて育った私は、その時の環境に満足していたのですが、成功している経営者たちと交流して助言を貰うようになってから「独立」を意識するようになりました。
  • 10年後に40歳で帰国して、技術コンサルタントとして独立します。
  • その後大きな仕事が舞い込み、家族と共にアメリカに移住しましたが、移住してたった2年後に家内が重度の脳出血で倒れ4日間の昏睡状態になります。
  • 命はとりとめましたが、重度の右半身麻痺、重度の失語症、嚥下障害、視野欠損が後遺症として残りました。
  • 椅子に座っていられないほどの重度麻痺とコミュニケーションが取れないほどの失語症に意気消沈しました。
  • 病院に請求された医療費負担(3000万円以上)と、毎月必要になる薬代(約12万円)、リハビリ代(約30万円)、そして辛い家内を家に置いて働かなければならないジレンマに身も心もボロボロになりました。
  • 家族会議を開き、仕事を辞めて日本に帰国することに決めました。

ここから先をブログに描いてゆきたいと思っています。

死にたいと思ったこと?何度もありますよ。

でも大丈夫です、今ここにいるのですから、生きることが楽しくなる何かを提供できるかもしれませんよ。

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