朝、寝室のカーテンを開けると、もう蝉が鳴いていました。まだ六時前だというのに、外の空気はすでに湿った熱を含んでいて、今日もまた三十五度を超えるのだろうと覚悟します。家内の脳卒中後疼痛(CPSP)は、夏になると独特の重さを帯びます。冷房で冷やしすぎれば痛みが強くなり、かといって暑さで発汗しすぎれば消耗して寝込んでしまう。「夏の養生」という言葉を、私は毎年七月に、体で覚え直しています。
きのうの晩、家内が「胸のあたりがざわざわして眠れない」と言いました。心電図の異常ではありません。東洋医学でいう「心(しん)」が、夏の熱に炙られてざわつくときの、あの独特の落ち着かなさです。私は台所へ行き、鍋にゆっくり水を沸かし、白湯を一杯淹れて持っていきました。
冷たいものが欲しい季節に、あえて白湯を淹れる理由
西洋医学の視点で言えば、夏の不調の多くは「脱水」と「熱中症」で説明されます。だから水分と塩分をこまめに、冷たい飲み物で体温を下げましょう、というのが常識です。もちろんそれは正しい。実際、家内の主治医からも「冷たいスポーツドリンクを常備しておいて」と何度も言われました。
けれど私は、それだけでは足りないと感じています。冷房の効いた部屋で、氷入りの麦茶をがぶ飲みして、それでも夕方になるとぐったりしてしまう——そういう夏の疲れは、水を「入れた量」だけの問題ではないのです。入れた水を、体がちゃんと「巡らせる力」の問題なのだと、神山道元先生の本を読んでから、私はそう考えるようになりました。
東洋医学が言う「心」を守り、「気陰」を補うということ
七月の養生の主役は「心(しん)」です。ここでいう心は心臓そのものではなく、血の巡りと精神活動をあわせて司る臓、いわば体の司令塔のような存在だと神山先生は教えてくれます。夏の暑さ(暑邪)は真っ先にこの心を痛めつけます。心が疲れると、動悸、寝つきの悪さ、いらいら、そして家内のような「胸のざわざわ感」として現れます。
さらに、汗をかくということは、水分だけでなく「気(き、体を動かすエネルギー)」と「陰(いん、体を潤す水分と血)」を一緒に外へ出してしまうことでもあります。これを「気陰両虚(きいんりょうきょ、エネルギーも潤いも足りない状態)」といいます。冷たい飲み物は入り口では気持ちよくても、胃を冷やして吸収を妨げ、結果として「気陰」を補えないまま体を消耗させてしまう。だから私は、夏こそ温かい白湯を淹れるのです。胃腸をゆるめて、水を体の隅々まで運べる状態にしてから、次の一杯を渡す。それが我が家の夏のルーティンになりました。
我が家の「夏の三点セット」——今日から真似できる養生
家内の枕元にはいつも三つのものを置いています。まず、蓋つきのポットに入れた白湯。四十度くらい、赤ちゃんのミルクより少しぬるい温度が、夏の胃には一番やさしい。二つ目は、少量の梅干し。塩気と酸味は、東洋医学では「収斂(しゅうれん)」といって、外に漏れ出しやすい気陰を体の内側に引き戻す働きがあるとされます。三つ目は、菊花(きくか)と麦門冬(ばくもんどう)を軽く煎じたお茶。心の熱を冷ましつつ、潤いを補う組み合わせで、神山先生が「夏の疲れがどうにも抜けない人へ」と教えてくれた処方の考え方を、家庭で真似したものです。
日中はできるだけ冷房を弱めにして、代わりに扇風機で風を動かします。阿久沢先生の受け売りですが、体表を風がなでるだけでも、皮膚の熱がふっと逃げていく感覚があります。そして夕方、家内の背中を私が手で温めながら、ゆっくり深呼吸を三分。心の高ぶりを鎮めるには、外から冷やすより、呼吸で内側から降ろすほうが早いのです。
「治す」のではなく、「今日を越える」
家内の痛みが、この養生で消えるわけではありません。CPSPはそういう病気ではないと、私はもう受け入れています。けれど「今日一日をなんとか越えられた」という夜がひとつ増えることは、確かに私たちの一年を変えていきます。夏の養生とは、心を守り、気陰を補い、無理に涼を取りすぎない——ただそれだけのことを、毎日ていねいに繰り返すことなのだと、七月四日の朝、白湯の湯気を見ながらまた思いました。乗り越えられない試練はない、と私が言えるのは、こういう小さな朝を家内と重ねてきたからです。
※本記事は東洋医学の考えに基づく養生の知恵を紹介するものであり、医療行為の代替を推奨するものではありません。症状がある方は必ず医療機関を受診してください。
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