大変ご無沙汰しております。
パッチングワーカーです。
2ヶ月ほど前、家内と鹿児島、大分を訪れました。
入院をしていた義父に会うことができる様になったからです。
仕方ないのかもしれませんが、3回以上ワクチン接種をしていなければ見舞いが出来ない決まりの病院でした。
直前にPCR検査をして、陰性証明書を提出してもダメだということでした。
義母は持病の関係でワクチンは打てていなかったし、家内は2回目を打った時の副反応が異常だったのと、疼痛が数倍になった経験があって3回目は打っていません。
待って待って、やっと病院がOKを出したのです。
入院先が鹿児島で、義父の家があるのは大分というイレギュラーな状況でしたが、これは病院の事情もあって触れないことにします。
私たちは、鹿児島に泊まりつつ義母を迎えに大分まで車を走らせて、また鹿児島の病院まで送り届ける予定でした。
義理の弟が先に鹿児島に来ていて、義母を大分に送り届けるのは彼の役割という手筈になっていました。
私はとても忙しい時期で、前日は山形で仕事があって帰れないので、朝一番の新幹線で家に帰って、家内を連れて羽田に向かうという強行スケジュールだったのを思い出しました。
義父は心臓の手術が控えていたのもあって会いに行く予定だったのですが、山形でお客様とお酒を飲んでいる時に義弟から電話があって、義父の危篤を知らされたのです。
東京に居たとしても最終には間に合わない時間でしたが、翌日の朝一番機には乗れたはずです。
『お前だけ先に行け!!』
これが普通ですが、家内は1人では空港にも行けません。
運命だと諦めるしかありませんでした。
翌日、病院に駆けつけたのですが、ICUにいて意識はない状態でした。
予定していた手術もキャンセルになりました。
義弟と家内を病院に置いて、私は義母を迎えに大分へトンボ帰り。
家内たちは急遽、鹿児島市内のホテルに滞在して、私は荷物のある垂水のフェアフィールドに1人滞在となったわけです。
義父は安定していて、私たちの滞在している約1週間の間には危機はきませんでした。
医師の説明によると、持ち直すかどうか解らないとのこと。
ミニ会議を開いて、とりあえず弟は2日後、私たちは翌日の飛行機で帰ることに。
ところがです、翌日の飛行機で羽田に着いた瞬間に永眠の知らせがありました。
そんな訳で、次の日の飛行機で福岡に飛び、義父が運ばれる大分に行くことになりました。
先日四十九日を終えることが出来まして、8月の初盆で一区切りということになります。
13年前、家内が倒れた時にすぐにアメリカまで飛んできてくれた義父達でしたが、今回は私たちが何回か往復する事となりました。
海外に住んでいる時から、親の死に目には会えない覚悟をしていましたが、現実を目の当たりにして、簡単に割り切れるものではありませんでした。
そんな訳で、仕事は忙しくしていましたが、ブログを書く気になれなかったというのが本当のところです。
会いたい人に会えなかった訳ですから、義父の最後は孤独だったと思います。
どうしてもキツそうな顔が頭の中に現れて、たくさんの後悔が溢れてきます。
でも、楽しかった思い出を埋もれさせるのも良くないと思い、納骨時にたくさんの写真を持参しました。
結婚してすぐに欧州に赴任した私達だったのですが、両方の両親を時間差で呼ぶことが出来ました。
JALのビジネスクラスで来てもらい、パリやスイスに連れて行くことが出来ました。
スイスではホテルに炊飯器を持ち込んで、おにぎりを作ってハイキングをしました。
ツアーでは絶対に味わえない経験をしてもらいました。
そこには嬉しそうな義父が写っています。
本当に幸せそうな表情が沢山あります。
板前だった義父が、ルクセンブルクの魚屋さんで目利きをしてくれました。
全部の魚が新鮮で素晴らしいと、目利きの仕方も教えてくれました。
私の魚の目利きは、ルクセンブルクで義父に教わったものです。
魚を下ろせるようになったのも、それから頑張って練習したからです。
目利きができなっかったので、魚屋の魚が刺身でたべられるのか?
それすら解らなかったので、高いお金を出して日本料理屋に行っていました。
アメリカの病院で、ベッドに横たわった家内と写っている義父と義母の写真もあります。
家内が今生きているからこそ、懐かしく見ることができる写真です。


家内の痛みに関しても、この2ヶ月の間に色々な出来事がありました。
あまり良い結果ではないのですが、次回書かせていただきます。
お付き合いいただき、ありがとうございました。






















































