飲食店の苦悩その1

万事休す

あと2ヶ月で資金ショートする。

ナポリピッツアの店が軌道に乗らず、そこまで追い詰められていました。

個人事業主ですから、資金ショートの意味するところは明らかです。

『家族をどうやって養おう』

『妻はどうなってしまうのか?』

不安が増幅して、気が狂いそうになります。

コロナ禍にあって、こんな思いの飲食店経営者が無数にいると思うと心が痛みます。

努力の範疇を超えています。

だからこそ、努力できるところまで引っ張ってあげてほしい。

市場が自由でいられない今だけは、政治が頭とお金を使って欲しいと思います。

帰国

アメリカの医療機関に数千万円の支払いをしました。

現金では足りず、売れる限りの有価証券を手放して、最悪家を売るか担保にして借金するしかない。

追い込まれながら、何とか支払うことができました。

借金はしなくて済みましたが、日本に帰って無職で暮らすには心細い金額でした。

帰国後いろいろな手続きに入りました。

妻の保険金支払い請求。

これには驚きました。

日本に住んでれば、健康保険に守られて、医療保険の支払い金額はお釣りがくるほど手厚く支払われます(加入内容によります)

医療費が桁違いのアメリカで支払った金額に対して、手元に入ってきた医療保険の支払額は焼け石に水でした。

アメリカで、気が遠くなる金額の支払いを続けていた時、USD1000(約10万円)の救急車代金が端金に思えた。

あの時の感覚に引き戻されました。

家族の渡米に際して、駐在は長くないと踏んでいたので、合法的に年金支払いを休止していました。

したがって障害年金も全く支給されず。

1種1級障害ですから、頂けない金額は大きい。

当てが一つずつ外れて行きました。

家内が倒れてから、家内の心配とお金の心配が途切れる事なく押し寄せていました。

人生終わったと決めつけていて、妻には笑顔でリハビリをサポートして、一人では死にたくて仕方がない、メンタルが不安定な時期でもありました。

子供達が居なかったら、私はあってはならない事をしでかしていたかもしれません。

出店

経済的に少しずつ首が絞まりながら、毎日が過ぎていきました。

収入ゼロなので所持金が減っていく。

ただでさえ辛い家内に、我慢させる事も辛い。

家庭教師、肉体労働、道路清掃、交通整理等、働く術を探りましたが、田舎町ですからそんなに仕事はありません。

子供達の学校にもお金がかかるし、家内はまだまだ1人でいられる状態ではない。

家内の親父さんが営んでいた居酒屋の古い店舗が遊んでいました。

考えて考えて、フリーズした頭で考えて、店内改装をしてナポリピッツァの店を始めることに。

お世話になっていたイタリアの会社の社長さんが石窯を送ってくれる事になり、いよいよ逃げられない状況に追い込まれました。

営業開始

石窯で焼けばどんなピザでも美味しいだろう。

本当に浅はかでした。

ピザ屋なのにピザに自信がありません。

ランチではイタリアで覚えた手打ちパスタが少し出て、ピッツァは全く。

夜は殆どお客様が来ません。

お酒を飲んでいただきたいのに、田舎町ですから運転して来るしかない。

お客様は来なくても、窯を温めておかなければならず、薪代はかさみます。

仕込んだ生地も捨てる事が多く、どんどん縮小。

この町に石窯を備えたピザ屋はないから、絶対に流行ると思ったけど、ニーズがないから店がないだけ。

店の改装費用でもっと目減りした少ない資金が、時限爆弾のように減っていく。

ピザ屋なのにピザが美味くない。

まずいとは言わないけれど、感動はしない。

ナポリで食べて感動したあのピッツアには程遠い代物でした。

奇跡その1

生地の配合を変えたり、粉を変えたり、酵母を変えたり、考えられることは全て試したと思います。

自分が満足できないのに、お客様が満足する筈がありません。

香ばしくて軽い、足し算では出せない特別な香り。

一気に食べ切ってしまう程の美味しさ。

自家農園で育てているバジル、プーリア州のトマト、こだわりのモッツアレラチーズ、そして自慢(になる筈)の生地。

モッツアレラチーズと生地を極めるため、寝る間も惜しんで研究しました。

しかし、捨てる生地が増えるだけ。

焦りました。

勿体無いから昼も夜もピザ。

ある日、冷蔵庫の奥に忘れられた生地がありました。

息子が忘れたもの。

『こんなの出せないから食うぞ』

そう言って成形に入りました。

元気が無い成形しにくい生地です。

なんとか形にして400℃の窯の中に。

一瞬でわかりました。

元気よく弾けて、一気に良い香りが立ち上ります。

『これだ!!!』

軽くて香ばしい生地。

焼き上がって口に入れた瞬間、出会えないと諦めかけていたナポリで食べたあの味でした。

雑誌掲載(広告ではありません)、テレビ取材をきっかけにお客様が増え始めました。

店の窮地は脱することができました。

それから起こる数々の奇跡を書いていきます。

第一話はこの辺りで。

飲食店の苦悩その2に続きます。

結婚して杉並区堀之内の小さなアパートで暮らしていた私の父と母。

高円寺駅から歩いて15分くらいだったといいます。

環七通りが建設中で、都電が走っていたそうです。

都電の軌道をそのまま地下に埋めたのが、東京メトロ丸の内線。

営団地下鉄と呼ばれていました。

が、当時はまだ地下鉄はありませんでした。

近くの妙法寺というお寺の境内で撮られた、ベビーカー(当時は乳母車といいました)に乗せられた私の写真があります。

月曜から土曜日まで、毎日毎日夜8時まで残業して頑張っていた父。

技術者として働いていました。

私は新宿にある東京医科大病院で産声を上げました。

働け働けの時代です。

父は私が生まれた時も働いていたそうです。

すでに二つの縁があるのです。

一つ目は、家内がアメリカで倒れて帰国して、脳卒中後疼痛で苦しんでペインクリニックにかかって、縁あって東京に引っ越して、ペインクリニックの先生が書いてくれた紹介状の宛先が『東京医科大病院』

不思議な気持ちで自分が生まれた病院の門を潜ったのです。

二つ目は、杉並区堀之内。

私が生まれた時に住んでいた街。

父は埼玉県朝霞市に家を買い、私が2歳の時に引っ越したため、私の記憶に高円寺はありませんでした。

両親に高円寺の話は聞かされていましたが、高円寺の土を踏むことはありませんでした。

通っていた大学は新宿区にあったのにです。

家内が倒れて、家内の実家のある町に引っ越して、無職でリハビリをサポートしていたことは書きました。

https://keiken.blog/2020/11/21/example-post-3/

そのあとナポリピッツアの店を開き、家族総出で頑張っていました。

経営も安定して、なんとか食べていけるようになった頃、ある方を通じてメッセージがもたらされます。

ヨーロッパから帰って独立した頃に、私の技術者としての腕を買っていただいてくれていた社長様からでした。

『ひと月に何回大分と東京を行ったり来たりしても良いからうちへこい!!』

というものでした。

知らなかったのですが、その会社の所在地は杉並区堀之内でした。

こんな縁ってありますか?

妻の病気をきっかけにして、私は自分の原点に戻ることになるのです。

技術者

私が若い頃、父親の仕事が嫌いでした。

毎日帰るのが遅く、一緒に晩御飯を食べた記憶は数えるほどでした。

航空機のエンジンを作る父の会社は、超有名な会社です。

工場見学に連れて行ってくれても

『油臭い場所で嫌だ!!』

なんて、生意気な口をきいていました。

パイロットになりたくて頑張りましたが力及ばず。

気がついてみれば父と同じ機械系技術者になっていました。

気がついてみれば、油の匂いが大好きになりました。

気がついてみれば遅くまで仕事をしていました。

4年前に心臓の大手術を経験した父。

隣で心配そうに支えた母。

社会人になってから5年は九州、10年はヨーロッパ、5年はアメリカ(家族は2年)と、全然両親の近くにいなかった親不孝者。

今生きてくれている幸せ。

どんどん小さくなっていく両親(Rumikoさんの受け売りです)を心配する毎日。

毎週末は実家に通います。

家内を一人にする不安はあるけれど、今しかない。

片足が痛くて歩き方がおかしい母。

妻を見続けて、川平先生直々にリハビリを学んだ私。

このために生きてきた人生なのかと不思議に感じる今日この頃。

宇宙なんて大きなことは言わないけれど、繋がっている。

たくさんの愛情を受けて育ち、たくさんの愛情を注ぎ返す。

家族にも両親にも。

生きていてくれてありがとう。

妻に、父に、母にそして子供達に捧げます。

素晴らしいシナリオを描いてくださって感謝します。

神様ありがとう

試練を乗り越えるか逃げるか〜心労で髪の毛真っ白の巻

今日はリビング内の引っ越しをしました。

妻の作業机の位置が床暖房から外れていて、寒くて集中できないから。

ほんの少し前までは、床暖房だけで部屋全てが温まったのに、流石に本格的な寒さには対応できませんでした。

私の仕事机は小さな電気ストーブで温めるから動かさずに、温々とぬるま湯に浸かっている本棚を妻の机がある場所に移動して、入れ替えました。

netdedusselさんにお送りするお手玉の製作も暖かい環境で進められます。

netdedusselさん、お待たせして申し訳ありません。今しばらくお待ちください。

午前中目一杯作業したので、ランチはささっとアーリオオーリオペペロンチーノ。

茹で時間7分プラス1分で出来ました。

ポイントは潰したニンニクと鷹の爪で風味を纏わせたオリーブオイルと麺の茹で汁の乳化。

茹で上がりにドンピシャで乳化が完了するように時間を合わせます。

まろやかに、そして香りが引き立ちます。

脂っこさが消えてなくなります。

乳化剤を使わない乳化なので、分離する前に食べ終わります。

プチトマトが沢山あったので、アーリオオーリオペペロンチーノロッソになりました。

ボンゴレロッソアサリ抜き^ ^

ボロボロでしたよ

『ブログ〜人生の宝物』では、私たちの歴史を意図的に時間を飛ばしながらご紹介しています。

古い順から先入れ先出しで紹介してしまうと、朝ドラの第1週のように『つまらないかも』って思わせてしまいそうで。

書きながら記憶がどんどん蘇ってくるので、後から内容を挿入するには小説調では難しい。

いきなり壮絶なページから私達のブログにお越しいただいて、コメントくださる方々はとても驚かれた様子です。

読んでくださる方々のショックを和らげる目的もあって、内容に緩急を組み合わせて読んでいただければと思っています。

楽しい思い出も数え切れないほどありましたからね。これからもですけど。

初めて私達のブログにお越しくださった方は、全部読んで欲しいですが、とりあえずサクッとこの3編を読んでいただけるとありがたいです。

https://keiken.blog/2020/12/10/片手で創作するということ〜目覚めてからの試練/

https://keiken.blog/2020/12/11/片手で創作するということ〜目覚めてからの試練-2/

https://keiken.blog/2020/12/11/片手で創作するということ〜目覚めてからの試練-3/

『私だったら耐えられないかも』みたいなコメントを頂きます。

読んでいただいて、自分に置き換えて想像してくださるのはとても嬉しいですし、ブログを書く張り合いにつながります。

正直申し上げます。

私の場合、挫けっぱなしの人生です。

家内が倒れる前も倒れてからも、試練が訪れるたびにへなへなになってました。

ぐいぐい力強く前に進んでいるわけではございません。

チャレンジして、挫けて、チャレンジして、挫けての繰り返し。

42歳で半身麻痺になった妻は、病気のせいで髪の毛真っ白です。

染めてますけど。

私は時を同じくして、心労で髪の毛真っ白です。

グレーに染めてますけどね(^.^) 

白髪が目立つようになったというレベルではなくて、真っ白です。

真っ白になった時、人に言われるまで気が付きませんでした。

それくらい自分を見つめる余裕がなかったんです。

王妃マリーアントワネットが死刑を宣告された時、ショックで一夜で白髪になったという有名な逸話があります。

一夜はあり得ないですが、本当にあるんです。

かなり山あり谷ありの人生を歩んでいるので、生半可なことではへこたれない自信みたいなものはあるのですが、何かが起こるたびに『今回は乗り越えられないかも?』って思います。

『何故、自分に降りて来る試練の大きさが毎回大きくなってるわけ?』

そう思うわけですよ。

でも当たり前なんです。

試練って、乗り越えてしまえば次は試練に感じない。

自力であっさり越えられるからです。

逃げてると、毎回毎回小さなことに躓いてしまうわけです。

偉そうに言っている私は、逃げなかったわけでは無く、逃げられなかっただけですけどね。

苦労は買ってでもしろ??

買うわけないでしょ。

成長を早めたいから苦労させてくださいって?

あなたは天才です。

頭がフリーズ

試練が立ち塞がると、私の頭がフリーズします。

客観的にものを見る事ができなくなる。

目の前の問題しか見えない。

本当に不器用です。

結果的に乗り越えられているから経験値はかなり高くなるので、悪いことだけではないのですが、随分と遠回りしながら試練から抜け出すこともあります。

痛みが大きすぎると耐えられないから、人間は大きな傷を負ったりすると気を失うように出来ていますよね。

それと同じなのかな?フリーズする事実。

精神的ショックから目を逸らす意味で。

神様からすれば、私に試練を与えているのに、したたかに、ずる賢く避けて通ったら意味がない。

経験しろ!!

って言われているのだと、最近は諦めてフリーズした頭と付き合っています。

いらん知恵を絞らないで真っ向勝負で立ち向かうってことです。

頭が悪いのもかなりあるけれど、抜け出した後はアイデアもそれなりに出てくるし、先回りも出来るから、頭が悪いだけではなさそうだと。

神様の仕業だと(勝手に)思っています。

調子良い解釈ですけど。

皆様はどう思いますか?

想い出のパワー〜バケーション

生産技術という職種は悲しいもので、工場が稼働している毎日毎日が勝負なだけでなく、正月連休、ゴールデンウイーク、夏休みといったまとまった休みは、ほぼ例外なく能力アップの工事や、新規設備の増設などで出勤になります。

休み明けには立ち上げ作業が忙しく、安定した頃には次の連休に向けた改造や増設の設計に着手、並行して日々の安定生産を受け持つ多忙な部署でした。

思い返すと(日本で働いていた頃は)連休に休んだ記憶が全くありません。

私の所属していたメディア部門がヨーロッパに工場を作ることになって、運よくたまたまそこにいた私もメンバーに選ばれました。

1990年のクリスマスは、ヨーロッパの工場に送る機械設備の国内最終立ち上げで、設備開発をする部署があった秋田に缶詰。

そのあとはアメリカジョージア州の工場向けに設計させてもらった設備の立ち上げでアメリカにしばらく出張と、結婚前なのに全く会えない日々が続きました。

赴任前の多忙な日々の合間を縫うようにして、1991年7月14日に博多中洲で結婚式を挙げ、新婚旅行でフィジーに8日間滞在して、余韻に浸る間もなく単身でルクセンブルグに向かいました。

カプリ島青の洞窟

赴任して暫く無我夢中の日々でしたが、生産計画自体も緩く、それなりにトラブルはありましたが何とかなっていました。

11月末に妻が合流してきて、30人いた赴任者(最後は8人)の家族全てが揃いました。

最初のクリスマス休暇は休む!!と当時の社長が決めてくれて、慌てて旅行社に予約に行ったほどでした。

当時はインターネットもなく、分厚いパンフレットからフラッグキャリアのLUXAIRが運営しているLUXAIR TOURSのまだ空きのあるツアーを物色しました。

欧州人はバケーション命ですから、夏休みのバケーションから帰るとすぐにクリスマスバケーションの予約を始めるので、11月に残っているツアーはそれなりのものしかありません。

卒業旅行で行って感動したカプリ島(イタリア)にアクセスしやすい、ソレントの素敵なホテルが空いていたので予約しました。

妻に見せてあげたかった。

Grand hotel Excelsior Vittoriaというホテルでした。

英語もままならない時期、フランス語などは皆無。

パンフレットにDemin pensionと書いてあって、旅行社の人に英語(風)で意味を聞いたら朝ごはん付きだそう(な気がした)。

そのつもりで予約!!

南だから暖かいだろうと思って薄着。

たった9℃のソレントは地獄絵図^ ^

寒いルクセンブルグで飛行機に乗る前まで着ていた唯一の防寒服を毎日着ることに。

買えば良いじゃんって、ヨーロッパのクリスマス休暇は店が開いていないんですよ。

晩御飯を食べるところだって殆どやってない。

唯一開いていたRed Lionというpizzeriaに3日間も入り浸り。

4日目には流石にピザは????で諦めてホテルに帰ってきたら、コンシェルジュの人が何か言ってる。

『Why ◯△※◆◉^ – ^』

よーく聞いてみると、『なんでお前たちはホテルで飯食わんのか?』でした。

『そんなのこっちの勝手じゃん』って思っていると間髪入れず

『バンメシツイテマース』

そうなんです、Demi pensionは朝晩2食付きだったのです。

『食う食う!!』

『この格好でOK?』

なんで聞いたかというと、一張羅の防寒服ですから見窄らしい。

コンシェルジュさん、ちょっと考えてジャケットを貸してくれました。

妻にも。

それはそれは美味しいディナー。3日分損した気分で、でもホッとして夫婦水入らずで高級ディナーwith借り物のジャケットでした。

まだあって、毎日水中翼船に乗ってカプリ島へ行くも、青の洞窟はクローズ。

これも船乗りさんに4日目に思い切って聞いてみた。

『青の洞窟は冬の間はクローズさ』

散々なヨーロッパバケーションデビュー。

考え方

そのあとは能力不足から悲惨な日々でどこへも行けず。

早朝から夜遅くまで会社会社会社。

カミさんに申し訳なくて。

でも上手くいかなくて。

そんな私を尻目に、バケーションから帰ってきた欧州人エンジニア達。

一応私の部下(組織上ね)

帰ってきたそばから次のバケーションの話。

まだまだ日本男児のメンタリティーだったのでカチンときて言ってしまった。

『お前達はバケーションのために仕事してるのか!!』

何言ってんだこいつ?って感じで

『for family』

家族のために決まってんだろ!!

こうも言いました。

『日本人は仕事のために仕事してるの?』

『なんのため?』

答えられず。

『なんのためだろ?』自問自答。

良かった!!

これも追々書いていきますけど、コスタデルソル、シチリア島、ドミニカ共和国、モルディブ(3回)、シャルメルシェイク(紅海)、エルグーナ(紅海)、オーランド(ディズニーワールド)、グランドケイマン。

ヨーロッパ域内は車で沢山行きました。

『家族のために仕事する!!』って考え方を改めたから、沢山想い出を作れました。

思い出のパワーは強烈です。

障害を持ってからでも想い出作りはできます。

LCCにも乗れました。

おかげさまで思い出を重ねていけます。

皆様優しくて泣けてきます。本当にありがとう。

片手で創作するということ〜目覚めてからの試練その3

痛み

霧島の病院に入院していた方の中に、痛みを訴えていた方が多くいらっしゃいました。

ジンジンとか、キリキリとか色々な表現をされていました。

妻は痛みが全くなくて。

後でわかるのですが、単純に出血が多くて広範囲に神経がやられてしまったために、痛みを感じなかったのです。

痛みが出なかったのではなく、痛みを感じなかった。

軽度であればリハビリを開始して神経のバイパスが出来上がって、繋ぎ替えが起こります。

その際に繋ぎ間違えが発生して、神経過敏や感度高すぎ現象が起こるのです。その痛みを脳が記憶して、痛み信号に晒せれ続けると信号が来なくなってもリセット出来なくなる。最悪のスパイラル状態。

だから周りの人たちは痛みを訴えていた。

妻は繋ぎかえには程遠い距離と範囲の神経損傷があったため、その時は痛みが出なかっただけでした。

もちろん出血場所によっては痛みが残らないケースも沢山あります。

視床下部というところに出血がかかっていると、厄介な痛みが出やすくなるのです。

なんて偉そうに語っていますが、その時は全然知らなかった。

『ママは痛くなくてよかったね』なんて言ってました。

こんな状態なので、リハビリの効果が出ないんです。

毎日夕方になると自主練習までして頑張ったのですが、右手や指は一向に動く素振りを見せてくれませんでした。

痛みは霧島を退院して、川平先生の前の院長だった田中先生が週1回来てくださる大分県竹田市の大久保病院に通い始めてから1年ほど経ってからのことです。

原因不明の痛みを訴え出して、リハビリ出来ないくらい痛みが強くなって。

痛みは恐ろしい。何も出来なくなるし、何もする気が失せる。リハビリも何もかも。『どんな手段を使っても改善しなければ』そう思う。

この種の痛みは構造上『ロキソニン』『イヴプロフェン』といった周知の鎮痛剤が全く効かないんです。

テグレトール、トラムセット、リリカ、全く効果を示さないまま量が増えて薬漬けに。

リリカ(イメージ画像)

副作用は半端なくやってきて、目眩なんか半端なくて突然倒れ込む。目眩でですよ。

ある日、薬をやめることを決意。

効かないんだから副作用がなくなるだけ良いよ、って考えました。

リリカ400mgを相当長い期間服用してきたところから、一気に抜こうとしたわけで(先生に言えなくて〜絶対に真似しないでください。自己流は危険です)、テレビドラマで覚醒剤を抜く時みたいな幻覚は見るは、突然泣き出すわ、死にたくなったり。

常に誰かが近くにいる状態を切らさないようにしていました。

痛みの度合いを測定する画期的な測定器は存在しません。

だから無知な医師達に、痛みを抱える患者は傷つけられるのです。

流れ流れて、東京医大の有名な漢方医にかかった時のこと。

とりあえず痛みの強さを測定しようということで、擬似的痛み測定みたいなことをやったのです。

片手に電気を流して、電流を上げていきます。今の自分の痛みと同じくらいの辛さになったらボタンを押すといった簡易的なもの。

でも、痛みの強さを数字にしていただいたのは有難いことでした。

『我慢できない歯痛が、左半身全てにあって、24時間常にある状態』だそうです。

『男だったら我慢できない痛みの強さ』と表現されていました。

平成天皇の心臓バイパス手術を成功させた順天堂大学の天野篤教授が2014年に上梓された『熱く生きる』の最後に書かれていた一説が私の心を打ちました。

臨床医が最優先でやらなければいけないことは『患者の痛みを取除いてあげることだ』と。

不治の病かもしれないし、現代医学では対処できない難病かもしれない。でも、痛みをとってあげる最善の努力はできる。それが最優先だ。みたいな事だったと。

今、私の手元にこの本がないので少しニュアンスが違うかもしれませんが、内容は間違っていないと思います。

それ程痛みはQOLを低下させるのです。

片手で創作するということ

書きたいことが多すぎて、文章がどんどん出てきてしまうので、まだまだ続きます。

でも、長きにわたって痛みのために何もできない、何もしたくない状態が続いたため、自分の存在価値さえ見いだせないどん底の生活が続きました。

痛みの強さは今も同じですが、色々な面から希望が持てるようになってきて、何か大好きなこと、喜んでもらえることをしたい。

そう思えるようになったのです。

どんな物でも、誰かに喜んでもらえると自分の存在価値を見出せるのです。

痛みは常にありますが、好きな事に熱中している時間は忘れられる。

片手でも、痛くても、効率が悪くても作り続ける理由は、自己肯定そのものなのです。

自己肯定なんて一言で片付けたくないです。

片手しか使えないからこそ作り出せる何かを見つける旅でもあるのです。

『片手で創作するということ〜目覚めてからの試練』はもう少し続けさせてください。

痛みで心が潰れている頃、妻の誕生日に大好きなジャンポールチェボーさんにお願いしてサプライズケーキを作っていただきました。

六本木のジャンポールさんのスタジオ(今は下総中山)から大分の当時の住まいまで運びました。

驚きで顔がぐちゃぐちゃでした。

片手で創作するということ〜目覚めてからの試練その2

鹿児島大学霧島リハビリテーションセンター

大学病院は紹介状がないと原則受け入れてくれません。

風邪をひいても大学病院にかかられてしまっては、本当に大学病院を必要としている人に医療が行き渡らないからです。

アメリカの病院から日本の大学病院に紹介状を書いてもらうことはできません。

なので、最初は難色を示されました。

今迄の症状、治療内容、各種画像をもらって、それを持参する約束をして何とか外来での診察が許されました。

ただし、川平先生の診察を受けるに値するのかを判断する診察。

大分県の妻の実家近くに借りた古民家に子供達を置いて、車椅子を積んで霧島に向かいました。

朝早い診療だったので、霧島温泉に1泊。

この病気になってから高血圧になってしまって、薬を飲んでも150を超えることが多くて心配していましたが、一時的でも温泉に入ると血圧が120くらいに下がる。

本当に久しぶりに見た安心の数字でした。

豪華な食事が出されましたが、何を食べたのかはあまり覚えていません。

『何とか受け入れてほしい』そればかり考えていましたから。

霧島リハビリテーションセンター(2018年、本院に機能移転)

退院してみれば4ヶ月も入院させていただいていました。山を降りた鹿児島空港近くのマンスリーアパートを借りて通って、毎日朝から晩まで付き添いました。

作業療法、理学療法、言語聴覚士による言葉のリハビリ、視野欠損のリハビリ、磁気刺激治療法、装具審、自主トレーニング等々。

日本全国から作業療法士や理学療法士が学びにやってくる病院でした。

毎夕行われていた川平教授による講習会。休みの日にも病院に出てきて指導にあたられている。熱い先生なのです。高校時代ラグビーで花園に出たそうです。

私は子供達のいる大分県と行ったり来たりしながら、必死にやってました。無収入の不安に押しつぶされそうになりながらでした。

『なんとかなるさ』

まずは家内の事だけを考えるようにしていました。

頭フリーズによる失敗

ひとつ申し訳なかったエピソード。(まだアメリカにいる時の話)

時間が大きく遡ってしまいますが、家内のことばかり考えていてやっちまった失敗の話です。

倒れたのが1月17日で、リハビリ病院を退院したのが3月でした。その後自宅に戻ってPTの先生が来てくれてリハビリ。

私はというと、大きく穴を開けた仕事の繕いをしながら、日本でのリハビリや住まい探し、100枚以上あった請求書の処理。

救急車1,000ドル(約10万円)とか。装具代3,000ドル、最初にかかった病院(転院前の入院なし)代3,500ドルとか、

まあ、入院していた病院の詳細合計(値引き前450,000ドル)を見てしまっていたので麻痺状態でしたけど。

何はともあれ客観的にものを考えるなんぞは不可能状態。

子供達も傷つき苦しんでいたことは分かっていたけれど何もできずでした。

忘れもしない4月21日。

例によって支払いやら、薬の調達やら、室内リハビリやらで頭がいっぱいの夜に娘が急に泣き出しました。

堪えきれずに泣き出した感じ。

聞いてみると娘の誕生日。

すっかり忘れていて、娘も理解していたようなのですが悲しくなってしまったようで。

辛かったのは家族全員なのに、父親失格!!

急いで娘を連れて近くのモールに行き、ほしい服を沢山買ったのでした。

何かの縁でしょうか?

霧島リハビリテーションセンターに関しては、3つ不思議な事がありました。

偶然ではないと思いますが。

ひとつ目は、家内の従兄弟はすごく腕の良い美容師で、六本木でバリバリやっていた人なのですが、鹿児島の女性と結婚が決まって、その方の実家で暮らしていると聞いていました。

なんと、私が借りていたマンスリーアパートの目と鼻の先。

鹿児島って広いのに、こんなに近くだったなんて。

空港近くのホテルで結婚式が執り行われた時、病院の許可をもらって外出して祝福に駆けつけました。

六本木でバリバリの美容師でしたから、この町では有名だったようで、病院の看護師の方や、言語聴覚士の先生と奥様も常連様でした。

家内の髪を切りに病院まで来てくれて。

こんな近くに引き寄せられてきたんだと、驚きました。

ふたつ目は、脳卒中後疼痛(この話も沢山あるので書く予定です)に悩まされて、ドクターショッピングや、漢方医、怪しい宗教や、次からつぎへとやってくるMLMの紹介、整体、痛みを中和する電極挿入、YNSA(頭に打つ鍼)、気功etc。

少しでも良くなる方法を求めて探しまくっていたのですが、YNSAと気功は相性が良くて長く通っています。

YNSAに関してはそれ専用に書きたいと思っています。

気功の先生は目が見えません。

ある方の紹介を受けて通っていました。

目が見えなくなってから自分の力に気づいたそうなのですが、行く宛もなく日本中を彷徨って、何気なくたどり着いて気功の技を取得した場所が霧島だとおっしゃるのです。

その場所を調べてみると、霧島リハビリテーションセンターのすぐそば。

私が病院からアパートに帰る途中に買い物をしていた小さな雑貨屋さん(一応スーパーと書いてあった)の裏。

何じゃそれ?って感じでした。

引き寄せられてるでしょ。

3つ目はつい1年前のこと。

時は流れあれから10年近く経ってしまって。

私が通っていたジムにパワープレートが導入されました。

何が良いんだかいまいち分からない。ただのバイブレーションマシン?

ある日、時間ができたのでジムに行くと、『2時間後にパワープレートの担当者がプレゼンにきますよ』って教えてくれて、何気に家内に良いのではと思った私は『会員ではないですが、家内に聞かせたい』というと、快くOKしてくれました。

担当の方は一生懸命パワープレートの良さをアピールしてくれて、沢山の医療関係者の推薦もあるのですと。家内に沢山体験させてくれて。

下記はアフェリエイトではありません。効果を実感したから載せています。

先生ごとにパンフが作られていて、何とその中に川平先生がいらっしゃいました。

渋谷で川平先端リハラボというパーソナルリハビリみたいなことをされていました。

早速予約をして、川平先生にお会いしてきました。ギリギリコロナ前の出来事です。

今我が家にパワープレートがあります。

ピンポイントで目の前に現るんです。

色々な偶然が。

偶然ではないと思ってますが。

まだまだ創作に行きつかないですが、今日のところはこの辺でおしまいにいたします。その3に続きます。

昨日と同じ動画をアップさせていただきます。

片手で創作するということ〜目覚めてからの試練その1

目が覚めた後

オハイオ州トレド、セントヴィンセント病院。

死を覚悟するほどの長い昏睡状態から覚めた妻は、ICUを出て一般病棟に移って安定を待ちました。

どんなリハビリをするべきなのか、病院側の準備が始まりました。

失語症で言葉が全く出てこなくなっていたのと、私の言うことも全く理解できない状態でした。

系列のリハビリ系病院から派遣されてきた理学療法士(PT)が、寝たきりの妻をベッドの上に座らせようとしました。

右半身が完全に麻痺していたので体を支えることができず、崩れるように右側に倒れ込んでしまいました。

妻の目から大粒の涙。

不安な気持ちを悟られまいと努めて笑顔で接していた私も、耐えきれずに一緒に泣いてしまいました。

辛さを言葉にすら出来ない妻に感情移入して、大人気なく泣きました。

入院中の日々

病院に併設された家族用アパートメントに子供達と滞在して、毎日毎日妻の元に通ったのでした。

隣にヘリポートがあって、毎日毎日ヘリで患者が運ばれてくる。

ヘリの音を聞くたびに、運ばれてくる患者の家族の気持ちを思って、心がザワザワと揺れる。

アパートメントから病室に渡る長い廊下の横に教会がある。

入院患者の回復を祈る家族がいる。

その先に救命があって、5台以上の救急車が常に止まっていたり、患者を降ろしていたりする。

その先には入院している子供達のための学校があって、一瞬ほっこりする。

そして妻の待つ病室へ。

運ばれてから3週間で退院して、系列のリハビリ施設のある病院に転院。

車椅子にも乗れず、ストレッチャーに乗せられて病院の救急車で移動。

私の頭はずっとフリーズ状態だった気がします。

一変した人生

転院したリハビリ病院で1ヶ月の入院を経て、在宅リハビリに。

車椅子に乗っての退院でした。少しだけ回復。

失った言葉は数パーセント回復。

嚥下障害がひどくて水にとろみをつけないと飲めなかったのも克服。

入院中につけた胃ろうは外されないまま、大量の薬と共に自宅回復へ。

何もかも辛かったけれど、言語聴覚(ST)が英語で行われる事は痛々しくて見ていられなかった。

後遺症で日本語さえも全て吹っ飛んでいたのだから、英語やフランス語が出る筈もなく時間だけが過ぎる感じ。

遠隔での指導などまだまだの時代。

八方塞がりの状態は自分達で何とかするしかなかったのです。

フリーズしていた頭が少しずつ溶け出して、日本でのリハビリを強く意識して調査開始。

家内の生まれ故郷が九州なので、九州で良い病院がないか?

その頃少しだけメディアに登場していた鹿児島大学の川平教授が提唱する【川平法】という脳卒中からのリハビリ。

何度も電話をして取り次いでもらって、「入院できるか保証できないけれど、診察を受けに来なさい」っておっしゃっていただいて。

家族会議(妻は何を喋っているのか理解できなかったから実質3人で)で以下を決定。

  • パパはアメリカでの仕事を諦める
  • 日本でどうやって食べて行くか不安だけど今はママ最優先
  • ママの実家の近くに部屋を借りよう
  • 長男は日本で言う高校1年、娘は中学1年で充実していたけれど日本に転校
  • 鹿児島大学附属霧島リハビリテーションセンターに入院させてもらう(目標)

こんな感じで、家族で力を合わせてママ優先の人生を選択したのでした。

医療費が凄ーく高くて、ん千万円。手出しがね。残り僅かな所持金を手に帰国をしたのでした。

今日はここまでにしておきます。弁当作らないと。

マスクの製作風景〜片手でゆっくり作ります

【その場凌ぎ】と【とどめを刺す】の決定的な違い

どんなことにも当てはまる。

法則でもなんでもない当たり前。

恒久策と応急策の違い。

なのに若い頃はこれがわからないんですよ。

少なくとも私は出来なくて苦しみました。

何か問題が起こると「十分に気をつけるよう徹底いたしました」っていうあれ。

気をつけていなかったから起こったのではないのです。

問題の素を事前に潰さなかったから大問題になってしまっただけで、現場が気をつけてもまた起こるんです。

当たり前です。問題の真の原因がそこに居続ける限り、また起こります。

人生でも、仕事でも、人間関係でも、病院でも、勉強でも、家事でも、何でもかんでも同じです。多分。

苦い経験

生産機械設計とか生産技術の仕事をそれなりに(いまいちだったかな)やっていました。

ある時その会社がヨーロッパに工場を作ることになりました。

今では1兆円企業です。

ドイツに小規模なカセットテープの後工程(組立、包装、出荷)はあったのですが、ルクセンブルグに完全な生産工場を作ることになったのです。

カセットテープと、VHSビデオテープの工場でした。

プロジェクトに入って、結果的に結婚して赴任しました。

700名以上が働く大きな工場を一気に作りました。

聞こえはとてもいいけれど、日本からやってくるメンバー以外は全て未経験者ってことですよ。それは大変な日常でした。

月400万巻くらいのVHSを生産できる工場でしたが、なかなか安定生産にはなれませんでした。

チェーンの緩みとかネジの緩みとか、ベテランになったら当たり前のこともわからず、発生する問題をとりあえず治して生産する毎日でした。

来る日もくる日も同じような問題でトラブル発生。

ネジが緩んで問題が発生するなら、緩まないようにすればいいんです。

振動があるならそれをなくして、万が一緩む環境になっても緩まないようにすればいい。

ネジロックで固定したり、回り止めのピンを打ったり。

ユニットが振動で動いてしまうのなら、振動を抑制してから動かないようにテーパピンを2箇所打つ。

動かなくなるし、メンテナンスなんかで外してもあっという間に元の位置に戻せる。

当たり前のこと。でも知らなかったし、ゆっくり考えることもできなかった。

恥ずかしい過去です。

乗り越えた先

安定して生産できるようになったら、次は増産です。

1.2秒に1個出来上がる組み立てラインを、0.9秒に1個組み立て上がるラインに改造する。

最大加速度を0.5g以下に抑えながら工夫して安定化させる。

F=maだから、軽量化と加速度を下げてやれば負荷が減る。その理論を応用して改造する。

楽しかった。苦しんで学んで良かった、そう思いました。

最後は月540万巻まで生産できるまでになって、作り続けました。

その後はMDプロジェクト。

こんな私に任せていただいた。嬉しくて。

全ての生産機械をヨーロッパで調達することになって、忙しく楽しく働いて。

そのころは「その場凌ぎするなよ!!」なんて偉そうに言ってました。

右のMDはヨーロッパ限定モデル。

左は、日本に帰るときにチームのみんなが作ってくれたオリジナルMD。

自分たちで作ったスクリーン印刷機で家内と私の姿を印刷してくれた宝物。

振り返るとびっくり。カセットテープもVHSもMDも無くなっている。

でも、【その場凌ぎ】を絶対にしないで【とどめを刺す】ことの大切さを学んだ。

私のもう一つの宝。

ゾッとした

当時のヨーロッパ社の社長、日本での肩書きは部長だったSさん。

ヨーロッパの成功を受けてトントン拍子で出世して、親会社の社長に。

日経新聞に大きく取り上げられた時の記事。

「毎日工場を視察するけれど生産できていない。運ぶ荷物がないトラックの数をみてゾッとした」って書いていた。

ごめんなさい。私の仕業です。

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