拡大自殺

こんにちは、パッチングワーカーです。

ここスラバヤでもNHKの日本語放送を視聴できます。

今日のNews Watch 9で、昨年12月に大阪で発生した心療内科の放火自殺の特集をやっていました。

自分を取り巻くコミュニティに疎外感を感じて、憎しみを抱き、多数を道連れにして目立って自殺する事を拡大自殺と呼ぶのだそうです。

亡くなった院長の妹さんのインタビューで、院長がどれだけ一生懸命前向きに患者を救おうとしていたかの証拠になる遺品を紹介されていました。

並行して、加害者とされる人物の孤独についても取材していました。

精神的に追い詰められて仕事を失い、友人もなく(スマホには誰も登録されていなかったそうです)、助けてほしいと訴える勇気もなく、生活保護申請も却下されたのだそうです。

医師の言葉の中に

『こんな悪い事をすると友人に迷惑をかけるとか、家族に迷惑をかけるといった感情が静止力になる』

と。

5年前に生活保護の相談にのった方のインタビューでは

『心から助けてくれと言えない人だった』

そう仰っていました。

もっと親身になっていれば、と後悔していました。

私も孤独感の中で同じ感情が芽生えたことがあります

ドン引きされる事を覚悟して書きます。

アメリカで、日本で家が建つほどのお金を病院に支払って帰国したと。

仕事をたたんで帰国したのと、体も言葉も不自由な家内を置いて仕事を探すなんてできなかったし、技術者が働ける場所が片田舎にはないと思ってもいました。

口座のお金は流れるように無くなってゆきましたが、家内が倒れてから脳みそがフリーズして回復の兆しもなかったので対策も打てず。

誰もいない田舎の道を家内と2人でリハビリ散歩を繰り返していましたが、全く良いアイデアが生まれませんでした。

田舎ですから、

『障害を抱えた家族は恥ずかしいから外に出さない』

文化があったのもあって、家内以外の障がい者が道を歩いているのを見ませんでした。

そんなわけで疎外感を感じるようになりました。

お金もどんどん減っていって、生活保護すら意識するようになりました。

今考えれば、横浜にローン中とは言え不動産を所有していて生活保護もないですけど、

追い詰められていたんです。

自分から

『助けてほしい』

って言えなかったんです。

それで、逆恨みっていうか

『街ごと沈んでしまえばいいのに』

って思ったりしました。

だから

『助けてくれって声を出して言いなさい!!』

では、誰も救えないと思うのです。

この制度があれば、大阪の事件で加害者も被害者も作らないで済んだ唯一の方法は

『ベーシックインカム』

だと思います。

思い切って言わなくていい。

心が病んでいても食べていける。

治ったら頑張って働いて税金を納めて、世の中の役に立てばいい。

年金制度も要らなくなるし、

不景気で収入がなくなる恐怖がないから、購買意欲はばらつきにくい。

景気も安定するわけです。

皆様はどう思いますか?

今はそんな野暮な事思わないですけど、気持ちはわかります。

加害者に寄り添う意見もいいけれど、

被害者に寄り添う意見もいいけれど、

一気に両方無くせるのに!!

社会の仕組みをいつ誰が変えてくれるのでしょうか?

スラバヤ通りの妹へ

皆様こんにちは、パッチングワーカーです。

スラバヤに居ますと申し上げて、そこが何処なのかピンとこない方が殆どだと思います。

インドネシアがどのあたりにあるのかも普通はわかりません。

私が前職で大分県に転勤が決まったときは、別府が大分県にあることすら知りませんでしたからね。

関西の方にとっては茨城県と栃木県の正確な場所、関東の人間にとっては和歌山県や兵庫県の正確な場所がわからないのと同じ、かな?。

ユーミン好きの私からすると

『スラバヤ通りの妹へ』

のスラバヤ?

って思いました。

でも、スラバヤ通りはジャカルタにありまして、骨董市が常時あるような場所。

私がルクセンブルグで住んでいた住所は

Rue du Etats Unis

直訳すればアメリカ通りです。

各地に銀座があるみたいなものですかね?

違うな。

『スラバヤ通りの妹へ』

は、1981年にリリースされた4曲しか入っていないアルバム

『水の中のASIAへ』

の中の1曲でした。

妹みたいね15のあなた

髪を束ねて前を歩いてくかごの鳩や

不思議な果物に埋もれそうな朝の市場

やせた年寄りは責めるように

私と日本に目をそむける

でも、”RASA…(RASA…)RASA SAYANG EH”

そのつぎを教えてよ

少しの英語だけがあなたとの

架け橋なら淋しいから

”RASA SAYANG EH”

松任谷由実 スラバヤ通りの妹へ

日本に占領されていた時代を物語っているとても深い詩なのです。

この歌はスラバヤの歌ではないけれど、

もしスラバヤって聞いたことがあるなまえだな?

と思ったのであれば、この曲かもしれませんよ。

私が若かった頃のユーミンはアフリカだったり、インドネシアだったり、香港、中国といった、

当時では考えられなかった土地をテーマに曲を書いています。

今でこそ馴染みのある場所かもしれないですが、

当時はなぜアフリカ?

なぜインドネシア?

なんて思っていました。

仕事でケニアに行った時に思いましたね。

ユーミンは俺の4半世紀先を行ってる!!

ケニアの出張はインドネシアから急きょ行ったので、

『スラバヤ通りの妹へ』

と、

『アフリカへ生きたい』

の2曲を同時に追いかけた旅になったのでした。

懐かしいなあとスラバヤで思うのでした。

スティーブ・ジョブスが一般人の10年以上先を見ていて理解されなかったように、

ユーミンの理解不能な凄さを実感したのを覚えています。

人より先に外を見ることの大切さ、

日本を外から見る重要さ、

井の中の蛙になってはいけませんよ、

それらを肝に銘じて、私も生きてゆきたいのです。

全然足りないですけど😂

スラバヤの朝日をご覧いただきたいと思います。

想い出迷子

皆様こんにちは、パッチングワーカーです。

昨日遅くまで頑張って、90%程度までの箱詰めを終わらせることができました。

残りは4月末までの生活で最低限必要なものです。

私は星的に天馬と言って同じ場所に留まらない人生を歩むそうなのですが、本当にその通りになっています。

東京で生まれて、2歳で埼玉に引っ越しました。

地元の幼稚園、小学校、中学校までは周りと同じコピペ人生。

高校は地元ではなく浦和に通い、東京の大学に行きました。

大学を卒業するまでは、父が家を建て替えた時に仮住まいに引っ越しをしただけで全く同じ場所で暮らしました。

転校の辛さを味わったことがありませんでした。

就職をしてから人生が変わり始めます。

この会社は一部上場で日本橋に本社があることから、

『通える!!』

などという浅はかな考えも選択の理由です。

有名な会社でしたしね、あまり深くは考えていませんでした。

『残業が少ないと良いな』

なんて、今時の若いもんの発想!やってました。

でも実はこの会社、仕事大好き集団でした😂

そこから天馬としての星が暴れ出しました。

研修で秋田、仮配属で秋田、配属で長野、使えないと思われて(たぶん)大分、縁あってヨーロッパ(行く前に結婚、現地で長男と長女を授かる)、帰国して千葉、退社して横浜、仕事でアメリカ、妻が倒れて大分(無職)、お世話になっている会社の社長に誘っていただいて東京(今の住処)、そして横浜に戻る、わけです。

懐かしくて進まない

そんなわけで思い出だけは濃厚!!

引っ越しをしていると、ダンボール箱から出していないアルバム以外のあちらこちらから懐かしい写真が顔を出します。

その度に手が止まって懐かしむ感じです。

思い出迷子ってやつです。

人の家族写真ほどつまらないものはないですが、やたらと移動していることを感じていただけるとありがたいです。

イタリア、スイス、モルディブ、ケイマン(カリブ海)、シャルメルシェイク(紅海)、エルグーナ(紅海)。

ここにはありませんが、ディズニーワールド(フロリダ)、ディズニーランドパリ(フランス)、コスタデルソル(スペイン)等の写真が出てきました。

4月1日からは娘も社会人。

なんとか親の役目を果たすことができました。

チューブに繋がれた意識のない妻の横で、子供たちと共に祈ったあの日。

一人で育て上げる自信がなくて本当に不安でした。

妻は一命をとりとめてくれて、想像を絶する大変さながらも家族全員生きてこられたことに心から感謝しながら、しばらく停滞していた時期を取り戻すべく人生フライトが大きな音を立てながら再上昇を始めています。

弁当と引っ越し

引っ越しの荷造りをコツコツ進めていたら、思わずアルバムに見入ってしまいました。

一眼レフ(もちろん銀塩)で撮った会心のショットが出てきました。

イタリアはシチリア島の北東部にあるエオリア諸島にあるパナレア島。

以前、このパナレア等について書いた記事があります。

その時娘が大怪我をして大変だった事を書いています。

この写真はその数日後に島内を散歩した時のシーン。

よく見ると娘の右目の横あたりに大きなガーゼが見えます。

今でもうっすらと傷は残っています。

彼らも26歳と24歳です。

Time flies!!

光陰矢の如し。

引っ越しの荷造りの時くらいしか歴史をじっくりと見ないものなんですよね。

メディアの移り変わりがユーザーから見ると本当に最低!!

フィルム写真がデジカメに。

8ミリフィルムからVHS-Cや8mmビデオテープに変わって、そのあとDVCが来て気が付けばSDカードですからね。

せっかく残した思い出を見る機材がないなんてよくある事です。

データ移行がビジネスになるなんて許せないですよ。

私が作っていたカセットテープもVHSカセットも見る影もありません。

久しぶりのお弁当ショット

お弁当は相変わらず作っているのですが、娘用が必要なくなって寂しい限り。

今日は久しぶりに写真を撮ってみました。

大意はありません。

出汁巻卵と鳥もも肉の柚子胡椒風味塩焼き、温野菜のマリネです。

そろそろお弁当作りも終わりかなー?

ユーミンの歌詞

みかぽんさんのブログでback numberの歌詞のことが書いてあって、色々と懐かしい気持ちが蘇ってきました。

娘がback numberのファンクラブに入っていて、熱心にコンサートに行ったりCDを購入したり、オンラインライブを観たりしています

back numberって歌詞が素敵なんです。

情けない男心を切実に歌っていて、家族全員が好きです。

私の世代はなんといってもユーミンでして、みかぽんさんにメッセージを入れてからずっとユーミンの歌が頭で鳴りっぱなしなんです。

週末は必ず両親の元へサポートに行くのですが、実家には私が買い揃えたユーミンのアルバムが揃っています。

ちなみにキャンディーズも揃っています🙃

ユーミンの歌詞はものすごく凝っていて、中央フリーウェイなんかは有名ですよね。

実際はフリーウェイではないのですが、中央高速道路をそのまま描写。

ビール工場や競馬場がしっかりドライブ中に現れてくれて、恋人同士で盛り上がったものです。

山手のドルフィン(実際には根岸)のめっちゃ高価なソーダ水(当時は紅色でした)を頼んで、そんなに美しくない工場ばっかりの海を映してみたりもしました。

リインカーネーションというアルバムの最後の曲『経る時』を聴いたことがありますか?

『ふるとき』と読みます。

『4月毎に同じ席は薄紅の砂時計の底になる、空から経る時が見える寂れたそのホテルから…』

降ってくる桜の花びらと、過ぎて行く時間を重ねた素晴らしい歌詞なのですが、オープンエアの席が桜の木の下にあって、4月に桜の季節に花びらで席が埋まってしまうことを歌っているのです。

窓際では老夫婦が膨らみ出した蕾を眺めてる

薄日のさす枯木立が桜並木であるのを誰もが忘れていても

何も言わず やがて花は咲き誇り

叶わぬ想いを散らし 季節はゆく

二度と来ない人のことを ずっと待ってる気がするティールーム

水路に散る桜を見に

寂れたこのホテルまで

真夏の影 深緑に

ペンキの剥げたボートを浸し

秋の夕日細く長く

カラスの群れはぼんやりスモッグの中に溶ける

どこから来てどこへ行くの

あんなに強く愛した気持ちも憎んだことも

今は昔

4月毎に同じ席は

薄紅の砂時計の底になる

空から降る時が見える

寂れたこのホテルから

🏨🏨🏨

素敵な詩ですよね。

実際の桜に埋もれた席と、過去の経験を重ねているのです。

この曲を聴くと青春の時が戻ってくるのですが、皆様の思い出の曲やアーティストは誰ですか?

語りたくなってしまう私は、今の自分が幸せだからなんだと思います。

ぜひ聞かせてください。

FUKUSHIMA 50

2011年3月11日午後2時46分、私は大分県の家で妻のリハビリを終えて疲れてうたた寝をしていました。

『すごい地震だって』

脳出血で倒れてから1年強が経っていて、言葉も少しずつではありますが戻り始めていた妻の言葉で目を覚ましました。

生中継でどこかの魚市場が津波にのまれる映像を、目を擦りながら唖然と観ていた事を覚えています。

家内が倒れたのが2010年1月17日。

無我夢中で走り抜けていた最中で、私は無職。

311と聞くと、私の中ではあの頃の絶望の中の自分達が炙り出される。

できれば目を瞑りたいような、そんな日なのです。

亡くなった方々、そして大切な人を失って今でも心が満たされない沢山の人達がいることにも心を痛めながら、自分達の境遇を重ねていた時期もありました。

今年も311がやってきてしまいました。

被害者のご冥福をお祈りするとともに、心に空いた穴が塞がらない方々に、少しでも幸せが訪れることを祈っています。

冥土の大混雑

先日亡くなった叔父の少し前に、姉である叔母も亡くなりました。

実はコロナ直前に、足腰が弱り始めた私の両親を連れて墓参りに行った時のことです。

私の祖父母、叔父や叔母の両親が眠るお寺で偶然叔母と出会いました。

フランクフルトに住む娘(私の従姉妹)も帰国していて一緒でした。

せっかくだからどこかで食事をしようということになり、車で郊外のレストランに移動して会話を楽しんだのです。

この話は一度触れているのですが、もう一度だけ。

その時に叔母が教えてくれたことが強烈でした。

311の少し後、叔母は劇症肝炎で入院し意識不明となります。

導かれるように入った大きな広場のようなところは、数え切れない人でごった返していたそうです。

しばらくすると、案内人のような人がやってきてこう告げられたそうです。

『今は震災で手続きに時間がかかるし、あなたはまだここを通る人ではないから帰りなさい』

奇跡もいいところで、それから10年元気に生きたことになります。

この家族は本当に不思議な強運を背負っていて、一緒にいた娘も同じなんです。

彼女がまだ20台後半だった頃、自転車に乗って最寄りの駅から帰宅していた時にありえないスピードで走ってきた車に跳ねられました。

近くの整形外科に運び込まれたものの、頭蓋骨も割れて手の施しようもないほど何もできない状態だったそうです。

彼女も同じような俗にいう三途の川を見た一人です。

一つだけ違ったのは、彼女をこの世に引き摺り下ろしてくれたのは医師だったということです。

たまたま当直のアルバイトとして勤務していた若い医師が、自分の所属していた防衛医大病院に連絡を入れて転院の手続きを取ったのです。

ほぼ丸一日に及ぶ手術が行われて、助かっても何らかの後遺症が残る可能性を示唆されていたそうです。

今でもピンピンしている彼女は、内向的だった面影は全く無くなってしまうほど超アクティブに。

パラセーリングやスキューバダイビングなど、以前の彼女なら絶対に挑戦しないようなことに挑み始めました。

そしてドイツへの移住。

母親の死には14日間の隔離で間に合いませんでしたが、子供二人を授かって幸せに生きています。

FUKUSHIMA 50

この映画、実名がたくさん出てくる中にあって政治家の名前と電力会社の名前が仮名になっています。

最前線で命を張って戦った人間達が生きた証なのに、彼らが所属していた電力会社は実名の公開を渋る。

『絶対に安全でクリーンな夢の発電』

と国民を欺いて膨大な国家予算を注ぎ込んで次々に建てられた原発。

私の父の会社が建造した縁で乗せていただいた『原子力船むつ』も、放射能漏れで日の目を見ることなく原子力船としては引退。

今考えれば、技術的難題が山積みだったと思うのです。

常温核融合、レーザー核融合など、本当に安全な原子力発電の研究が行われていますが、まだまだ道半ば。

『絶対に安全!!』

などありえないと、声を大にして世界に訴えることができる国は日本しかないのです。

ロシアや中国でこんなことを発信すれば、あっという間に口封じされてしまう。

日本は広島、長崎で被爆して悲惨さを熟知している。

『原子力を平和利用しよう!!』

そう訴えて福島の事故です。

『15メートルの津波は想定外だった』

そう言い訳したのに、脱炭素やSDGsの影に隠れて原発推進を政府が進めている。

安全でクリーンなはずだった夢の発電が想定外の津波が来て大惨事になったのに、今度こそは絶対に安全だと。

フェイルセーフの考え方で『絶対に安全』と言われていたボーイング747。

通称ジャンボ。

パイロットになることを夢見ていた私にとっての憧れの飛行機でした。

『圧力隔壁の破損は想定外だった』

想定外の前にフェイルセーフはあっけなく壊れ、524人の命を乗せた日航ジャンボ機はパイロット達の死闘の甲斐もなく御巣鷹の尾根に激突しました。

近年では、メカニカル設計に無理があるバランスの悪い機体を最新鋭のエレクトロニクスがカバーした筈のボーイング737MAXが2度にわたって墜落しました。

センサ異常で暴走を始めた機体と戦い続けて命を落としたパイロット達がいる。

犠牲になった乗客がいて、それぞれの家族や大切な人がいる。

FUKUSHIMA 50にも描かれていますが、最前線でメカトロニクスの想定外と戦った技術者達がいて、その家族や大切な人がいるのです。

想定外を徹底的に排除する努力を怠らない日本のメーカーの考え方は素晴らしいと思います。

反面

『これくらい大丈夫だろ』

なんてお粗末な見通しで作られた、見た目そっくりのシステムが世界中で見られるようになりました。

中国の新幹線衝突事故を覚えていますか?

担当高官の命令で、証拠隠滅のために埋められそうになったあの新幹線です。

あの国では48基の原発が稼働中です。

絶対安全だと信じることができますか?

一度も大きな事故を起こしていない日本の新幹線。

その国でさえも犯してしまった想定外が引き起こした大事故。

被害が甚大すぎて共産圏でさえも隠し切れなかったチェルノブイリの大事故。

想定外の事故に纏わる機器やシステムの設計を担当した人たちや、導入を決めた政治家達の思惑やドラマを描いた映画や書物は存在しないのでしょうか?

大きなノッポの古時計みたいなテーブル

新年あけましておめでとうございます。

今年の抱負とか予想については、沢山の先輩ブロガーの方々が書かれる事と思います。

そのあたりはお任せして、相変わらず私達家族の宝物について書かせていただきます。

今日は正真正銘物理的な物質です。

コロナで激変している世の中ですが、ライフスタイルが変わっても良いものは良い。

そう思えるお品です。

フランスはアルザス地方の工房が作ったテーブルとベンチ。

大塚家具も含めて、同じものに出会った事がありません。生産数が少ないのでしょう。

そのお品に思い出が詰まっています。

歴史

歴史というほど古いものではありませんが、我が家にとっては古株。

すでに25年。

1991年に結婚してルクセンブルグに赴任

1992年にシーズーのQちゃんを迎えて

1994年に長男誕生

1996年にこのテーブルを購入

1997年に長女誕生

2001年に横浜に引っ越し。Qちゃんもテーブルも同伴

2003年に横浜に家を購入。Qちゃんもテーブルも同伴

2004年娘の小学校入学式の日にQちゃんの旅立ち

2006年単身でアメリカに

2008年家族全員アメリカに引っ越し。テーブルも同伴

2010年家内が脳出血で半身麻痺になり、妻の生まれ故郷の大分県に引っ越し。テープルも同伴

2005年東京に引っ越し。テーブルも同伴。今に至る。

想い出が宝物

我が家にはたくさんの想い出があります。

思い出したくない事も沢山ありましたが、今の自分達を作ってくれた経験だと思っています。

息子が生まれて、妻が毎日息子をベビーカーに乗せて、Qちゃんと一緒にルクセンブルグ中央駅の周辺を散歩していました。

その時に見つけて気に入ったテープルとベンチ。

住んでいたアパートは広くなかったし、ベンチ2つと椅子3脚も合わせて買うと80万円位だったから、手に入れるなんて選択肢はありませんでした。

ある日妻は私を連れて実物を見せる為に家具屋さんに。

家具屋さんといってもセレクトした家具が10点くらいしか置いていない小さなお店。

正直に申し上げると一目惚れ。

その日から手に入れる為に何をしなければならないかのシミュレーション開始。

何はともあれテーブル積み立て。目標は特になし。

一年後に2つのきっかけがありました。

  • 妻のお腹に娘を授かって、広いところに引っ越す機会がやってきた事
  • 家具屋さんが閉店する事になった事

でした。

それから、長男繋がりで仲良くしてくださっていた第一勧業銀行(現みずほ銀行)のTさんから、その家具屋さんの娘さんがルクセンブルグの第一勧業銀行に勤めているので価格交渉してくれるとの知らせ。

閉店の在庫処分とお友達価格と言う事で、結構な割引をして頂き無事制約。

新しいアパートは3階だったので、引っ越しの日に新しいアパートに配達してもらって、引っ越し業者のリフトで無事納品になったのでした。

それから四半世紀。

私達家族の歴史をしっかりと見続けてくれている、頼もしい相棒なのです。

テーブルとベンチの色が違うのは、テーブルの表面だけ鉋がけしてステインを塗り直してもらったから。

家具職人さんから『裏面の落書きは残した方が良いですよ!!』っていう提案から表面だけにしました。

この後迎える幾多の試練など知る筈もなく良い笑顔でしょ。

今まで何とか家族で力を合わせてやってきました。

10年後のブログでは、コロナ危機が歴史に刻み込まれている事でしょう。

乗り超えた過去として。

今年はどんな歴史を重ねる事でしょうか?

皆様にとって素敵な一年になりますように!!

トイレの神様

歌って、聴いていた頃の記憶が甦りませんか?

私は高校生の頃(遥か昔)からユーミンが好きです。

同級生から、ユーミンブランドパート2というアルバムを借りて、カセットテープにダビングしたのが始まり。

後にレコードかCD全てを手に入れますけど、高校生の時ってお金持ってないですからね。

ダビングなんです。

ラスト曲の『翳りゆく部屋』に衝撃を受けて、ユーミンの世界に吸い込まれていきました。

次に手にしたアルバムは流線型80。

『埠頭を渡る風』にゾッコン。

その頃リリースされたのが『Surf and snow』というアルバムでした。

コンサートツアーの埼玉公演(当時は埼玉でコンサートといえば埼玉会館でした)のチケットを手に入れて行ったのを覚えています。

お客様は9割くらい女性で、後ろの方には空席がありました。

公演自体は当時からド派手で、水がそこら中から噴き出るような演出でした。

大学生になる頃には全てのアルバムを制覇していました。

コンサートは必ず行っていました。

チケットは頑張れば取れた感じでした。

社会人になった頃からチケットは全くと言って良いほど取れなくなってしまいました。

ASATSUに勤めていた友人に分けてもらった事もあったのですが、殆ど諦めていました。

1987年のダイアモンドダストが消えぬまに、に入っていた『Sweet Dreams』『霧雨で見えない』が三菱ミラージュのCMソングに採用されました。

コンサートも三菱自動車プレゼンツだったので、三菱ミラージュを購入してチケットを貰った思い出もあります。

アルバムを聴くと、リリースされた時代の思い出が鮮明に蘇ってきます。

涙が止まらなくなってしまう曲

植村花菜さんの『トイレの神様』を覚えていますか?

2010年日本レコード大賞、優秀作品賞、作詞賞を受賞した曲です。

NHK紅白歌合戦にも出場されています。

2010年1月17日、妻がアメリカのオハイオ州で脳出血によって倒れました。

昏睡状態、重度の麻痺、失語症、巨額の医療費、リハビリ、失意の帰国、無職、4ヶ月の鹿児島大学霧島リハビリテーションセンター入院、子供たちは常に留守番…。

2010年の冬休みに、家族付き合いしていた横浜のご家族が子供達を招待してくれました。

12月25日から31日まで。

福岡空港まで車で送って、子供達2人で飛行機で羽田に。

子供達にとって(私にとっても)激動の1年で、我慢ばかりさせていたので、素敵な息抜きになったと思います。

お友達の家のすぐ近くが、自分たちの家(貸し出していました)ですから、彼らにとっては庭のようなところ。

友達も沢山います。

招待していただいたのは、本当に素敵なはからいでした。

私はというと、4ヶ月の鹿児島大学霧島リハビリテーションセンターでのリハビリで大きな効果が出ず(歩きは早くなりました)、無職でお金の重圧ものしかかっていて精神状態が不安定な時期でした。

👇こちらに書いています。よろしかったら覗いていってください

https://wordpress.com/view/keiken.blog

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努めて明るく振る舞っていましたが、子供たちは感じていたと思います。

つまらない心配をかけていました。

楽しかった横浜での滞在を終えて、12月31日にそのご家族に羽田空港まで送ってもらい、子供達は飛行機に乗って福岡へ。

私と家内は車で福岡空港に迎えに行きます。

雪が降りそうだったので、妻を家に置いて出かけようとしましたが、一緒に行くと言ってききませんでした。

福岡空港に着く頃(17時頃だったと思います)には、福岡にも雪が降り始めました。

空港で子供達の到着を待っている間にも、雪は降り続きました。

飛行機の到着も遅れて、出会えたのは19時近く。

大好きな牧のうどんで『年越しうどん』食べていく計画もやめて、帰路につきました。

通常なら高速を使って70分あれば家につけます。

この日は結局高速道路閉鎖。

雪の積もった下道を、ノーマルタイヤで恐る恐る。

車の中で子供たちの横浜での楽しかった思い出話を聞きながら、紅白を諦めてゆっくり帰ったのでした。

何時間もかけて家に着いて、テレビをつけました。

その時流れてきたのが、紅白歌合戦での『トイレの神様』でした。

この歌に特別な想いがあるというより、その時の気持ちが思い出される。

  子供達に申し訳ない。

  お金がどんどんなくなってしまって生きていけるのか?

  横浜の家のローンはどうしようか?

  妻はこのまま良くならないのだろうか?

  自分がやれる仕事なんかない

  両親に申し訳ない

こんな気持ちがぐるぐると頭の中を回っていました。

こんな形で年を越すなんて、1年前には考えもつかなかった。

今でもこの曲を聞くと、切なくなって涙が止まらなくなります。

だから、せめて私の経験を書いて、同じような気持ちの人を元気付けたいのです。

『なーんだ、大した事ないじゃん』

そう思えるように。

皆様は、聴くと涙が出てしまう曲ってお持ちですか?

飲食店の苦悩その2

芳醇な香りの秘密

今ピッツアの味で悩んでいる方にお教えします。

引き算の料理は簡単ではありませんが、掴んでしまえば強みになります。

発酵、熟成した生地は発酵バターのような芳醇な香りを放ち、嘘みたいに軽い。

アメリカンピザを思い出してください。

これはこれで美味しいですが、まったくの別物。

足し算の料理です。

発酵を促すためと、足りない発酵による甘みを補う砂糖。

これは反則技で、小麦粉の一部が発酵して化けるのに、砂糖が発酵している。

足りない味を砂糖やバターで補う。

複雑極まりない味になるわけない。

砂糖の甘味、バターの香り(足してるからね)。

そして重い。

小麦粉、酵母、塩、水のみを使用したナポリピッツアの生地は、複雑な香りと味、そして軽さが特徴です。

400℃の釜に入れた瞬間から生地が弾けてポツポツと焦げができる。

生きている、熟成が進んだ生地の証拠。

秘密は『発酵終了後、1℃で4日間湿度に気をつけながら保存』

息子が冷蔵庫の奥に忘れた生地に、熟成という変化が生まれたのです。

冷蔵庫に忘れた生地

👇

https://keiken.blog/2020/12/22/%e9%a3%b2%e9%a3%9f%e5%ba%97%e3%81%ae%e8%8b%a6%e6%82%a9/

美味しいピッツアは成形しにくい。

ここポイント。

発酵の後に低温熟成させてください。

絶対に足し算の生地では作れない複雑な香りと軽さの生地ができます。

ブラウンスイス

流行っていない店でしたが、頻繁に来ていただいていたご家族がいらっしゃいました。

ワイン好きで、ピッツアは塩とオリーブオイルだけの素焼き。

でも、高価なものばかり頼んでくださる。

ある日その中のお一人がこうおっしゃいました。

『うちのミルクでチーズ作ってよ。ミルクはタダでいくらでもあげるから』

意味がわかりませんでしたが、どうやら牧場を経営されているようでした。

向こうは泥酔😄

こっちは素面。

お帰りになられたあと(深夜1時)片付けを終えて、いただいた名刺の牧場を検索。

年商130億円、日本で3番目の売り上げを誇る牧場。

5500頭の牛。

豊後牛の肥育も手がけている。

???????

眠れなかった。

明るくなったのを待って電話。

『昨日仰ったこと覚えてます?』

そう聞きました。

『あたりまえだよ。遊びに来ないか?』

店のある街にこんなに大きな牧場があるなんて知りませんでした。

日本に400頭しかいない牛『ブラウンスイス種』

リッチなミルクはモッツァレラチーズ、プリン、マスカルポーネチーズ、ジェラートなどに大変身。

素材がどんどんオリジナルに入れ替わり、店の商品も変貌を遂げていきました。

外国人受け入れ

ここまで大きな会社になると、海外との付き合いも半端ではありません。

オーストラリアから牛を買い、アメリカ、スペイン、ベトナムから牧草を買う。

アメリカとベトナムに会社を持ち、人が頻繁に行き来する。

気がつけば、店は外国人の溜まり場状態。

社長さまが

『こんな田舎町に英語を話せる家族がいたとは驚きだ!!』

って言ってから、どんどん送り込んでくれるように。

金に糸目をつけないから店も繁盛。

釣られるように一般のお客様も見える。

いつの間にか、九州全域、山口県から食べに来ていただけるようになりました。

ある日は田舎道に真っ赤なフェラーリが爆音を轟かせて来店。

福岡からのお客様で、次からは泊まりでご来店いただけるように。

『お前のところの料理はワイン抜きではきつい』

経営者のお客様が多かったのも特徴でした。

苦悩その2

店は流行り始めると家にいる時間が短くなります。

妻のリハビリが疎かになってくる。

体もキツくなってくる。

睡眠時間を削るようになっていきました。

続く

飲食店の苦悩その1

万事休す

あと2ヶ月で資金ショートする。

ナポリピッツアの店が軌道に乗らず、そこまで追い詰められていました。

個人事業主ですから、資金ショートの意味するところは明らかです。

『家族をどうやって養おう』

『妻はどうなってしまうのか?』

不安が増幅して、気が狂いそうになります。

コロナ禍にあって、こんな思いの飲食店経営者が無数にいると思うと心が痛みます。

努力の範疇を超えています。

だからこそ、努力できるところまで引っ張ってあげてほしい。

市場が自由でいられない今だけは、政治が頭とお金を使って欲しいと思います。

帰国

アメリカの医療機関に数千万円の支払いをしました。

現金では足りず、売れる限りの有価証券を手放して、最悪家を売るか担保にして借金するしかない。

追い込まれながら、何とか支払うことができました。

借金はしなくて済みましたが、日本に帰って無職で暮らすには心細い金額でした。

帰国後いろいろな手続きに入りました。

妻の保険金支払い請求。

これには驚きました。

日本に住んでれば、健康保険に守られて、医療保険の支払い金額はお釣りがくるほど手厚く支払われます(加入内容によります)

医療費が桁違いのアメリカで支払った金額に対して、手元に入ってきた医療保険の支払額は焼け石に水でした。

アメリカで、気が遠くなる金額の支払いを続けていた時、USD1000(約10万円)の救急車代金が端金に思えた。

あの時の感覚に引き戻されました。

家族の渡米に際して、駐在は長くないと踏んでいたので、合法的に年金支払いを休止していました。

したがって障害年金も全く支給されず。

1種1級障害ですから、頂けない金額は大きい。

当てが一つずつ外れて行きました。

家内が倒れてから、家内の心配とお金の心配が途切れる事なく押し寄せていました。

人生終わったと決めつけていて、妻には笑顔でリハビリをサポートして、一人では死にたくて仕方がない、メンタルが不安定な時期でもありました。

子供達が居なかったら、私はあってはならない事をしでかしていたかもしれません。

出店

経済的に少しずつ首が絞まりながら、毎日が過ぎていきました。

収入ゼロなので所持金が減っていく。

ただでさえ辛い家内に、我慢させる事も辛い。

家庭教師、肉体労働、道路清掃、交通整理等、働く術を探りましたが、田舎町ですからそんなに仕事はありません。

子供達の学校にもお金がかかるし、家内はまだまだ1人でいられる状態ではない。

家内の親父さんが営んでいた居酒屋の古い店舗が遊んでいました。

考えて考えて、フリーズした頭で考えて、店内改装をしてナポリピッツァの店を始めることに。

お世話になっていたイタリアの会社の社長さんが石窯を送ってくれる事になり、いよいよ逃げられない状況に追い込まれました。

営業開始

石窯で焼けばどんなピザでも美味しいだろう。

本当に浅はかでした。

ピザ屋なのにピザに自信がありません。

ランチではイタリアで覚えた手打ちパスタが少し出て、ピッツァは全く。

夜は殆どお客様が来ません。

お酒を飲んでいただきたいのに、田舎町ですから運転して来るしかない。

お客様は来なくても、窯を温めておかなければならず、薪代はかさみます。

仕込んだ生地も捨てる事が多く、どんどん縮小。

この町に石窯を備えたピザ屋はないから、絶対に流行ると思ったけど、ニーズがないから店がないだけ。

店の改装費用でもっと目減りした少ない資金が、時限爆弾のように減っていく。

ピザ屋なのにピザが美味くない。

まずいとは言わないけれど、感動はしない。

ナポリで食べて感動したあのピッツアには程遠い代物でした。

奇跡その1

生地の配合を変えたり、粉を変えたり、酵母を変えたり、考えられることは全て試したと思います。

自分が満足できないのに、お客様が満足する筈がありません。

香ばしくて軽い、足し算では出せない特別な香り。

一気に食べ切ってしまう程の美味しさ。

自家農園で育てているバジル、プーリア州のトマト、こだわりのモッツアレラチーズ、そして自慢(になる筈)の生地。

モッツアレラチーズと生地を極めるため、寝る間も惜しんで研究しました。

しかし、捨てる生地が増えるだけ。

焦りました。

勿体無いから昼も夜もピザ。

ある日、冷蔵庫の奥に忘れられた生地がありました。

息子が忘れたもの。

『こんなの出せないから食うぞ』

そう言って成形に入りました。

元気が無い成形しにくい生地です。

なんとか形にして400℃の窯の中に。

一瞬でわかりました。

元気よく弾けて、一気に良い香りが立ち上ります。

『これだ!!!』

軽くて香ばしい生地。

焼き上がって口に入れた瞬間、出会えないと諦めかけていたナポリで食べたあの味でした。

雑誌掲載(広告ではありません)、テレビ取材をきっかけにお客様が増え始めました。

店の窮地は脱することができました。

それから起こる数々の奇跡を書いていきます。

第一話はこの辺りで。

飲食店の苦悩その2に続きます。

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