想い出のパワー〜バケーション

生産技術という職種は悲しいもので、工場が稼働している毎日毎日が勝負なだけでなく、正月連休、ゴールデンウイーク、夏休みといったまとまった休みは、ほぼ例外なく能力アップの工事や、新規設備の増設などで出勤になります。

休み明けには立ち上げ作業が忙しく、安定した頃には次の連休に向けた改造や増設の設計に着手、並行して日々の安定生産を受け持つ多忙な部署でした。

思い返すと(日本で働いていた頃は)連休に休んだ記憶が全くありません。

私の所属していたメディア部門がヨーロッパに工場を作ることになって、運よくたまたまそこにいた私もメンバーに選ばれました。

1990年のクリスマスは、ヨーロッパの工場に送る機械設備の国内最終立ち上げで、設備開発をする部署があった秋田に缶詰。

そのあとはアメリカジョージア州の工場向けに設計させてもらった設備の立ち上げでアメリカにしばらく出張と、結婚前なのに全く会えない日々が続きました。

赴任前の多忙な日々の合間を縫うようにして、1991年7月14日に博多中洲で結婚式を挙げ、新婚旅行でフィジーに8日間滞在して、余韻に浸る間もなく単身でルクセンブルグに向かいました。

カプリ島青の洞窟

赴任して暫く無我夢中の日々でしたが、生産計画自体も緩く、それなりにトラブルはありましたが何とかなっていました。

11月末に妻が合流してきて、30人いた赴任者(最後は8人)の家族全てが揃いました。

最初のクリスマス休暇は休む!!と当時の社長が決めてくれて、慌てて旅行社に予約に行ったほどでした。

当時はインターネットもなく、分厚いパンフレットからフラッグキャリアのLUXAIRが運営しているLUXAIR TOURSのまだ空きのあるツアーを物色しました。

欧州人はバケーション命ですから、夏休みのバケーションから帰るとすぐにクリスマスバケーションの予約を始めるので、11月に残っているツアーはそれなりのものしかありません。

卒業旅行で行って感動したカプリ島(イタリア)にアクセスしやすい、ソレントの素敵なホテルが空いていたので予約しました。

妻に見せてあげたかった。

Grand hotel Excelsior Vittoriaというホテルでした。

英語もままならない時期、フランス語などは皆無。

パンフレットにDemin pensionと書いてあって、旅行社の人に英語(風)で意味を聞いたら朝ごはん付きだそう(な気がした)。

そのつもりで予約!!

南だから暖かいだろうと思って薄着。

たった9℃のソレントは地獄絵図^ ^

寒いルクセンブルグで飛行機に乗る前まで着ていた唯一の防寒服を毎日着ることに。

買えば良いじゃんって、ヨーロッパのクリスマス休暇は店が開いていないんですよ。

晩御飯を食べるところだって殆どやってない。

唯一開いていたRed Lionというpizzeriaに3日間も入り浸り。

4日目には流石にピザは????で諦めてホテルに帰ってきたら、コンシェルジュの人が何か言ってる。

『Why ◯△※◆◉^ – ^』

よーく聞いてみると、『なんでお前たちはホテルで飯食わんのか?』でした。

『そんなのこっちの勝手じゃん』って思っていると間髪入れず

『バンメシツイテマース』

そうなんです、Demi pensionは朝晩2食付きだったのです。

『食う食う!!』

『この格好でOK?』

なんで聞いたかというと、一張羅の防寒服ですから見窄らしい。

コンシェルジュさん、ちょっと考えてジャケットを貸してくれました。

妻にも。

それはそれは美味しいディナー。3日分損した気分で、でもホッとして夫婦水入らずで高級ディナーwith借り物のジャケットでした。

まだあって、毎日水中翼船に乗ってカプリ島へ行くも、青の洞窟はクローズ。

これも船乗りさんに4日目に思い切って聞いてみた。

『青の洞窟は冬の間はクローズさ』

散々なヨーロッパバケーションデビュー。

考え方

そのあとは能力不足から悲惨な日々でどこへも行けず。

早朝から夜遅くまで会社会社会社。

カミさんに申し訳なくて。

でも上手くいかなくて。

そんな私を尻目に、バケーションから帰ってきた欧州人エンジニア達。

一応私の部下(組織上ね)

帰ってきたそばから次のバケーションの話。

まだまだ日本男児のメンタリティーだったのでカチンときて言ってしまった。

『お前達はバケーションのために仕事してるのか!!』

何言ってんだこいつ?って感じで

『for family』

家族のために決まってんだろ!!

こうも言いました。

『日本人は仕事のために仕事してるの?』

『なんのため?』

答えられず。

『なんのためだろ?』自問自答。

良かった!!

これも追々書いていきますけど、コスタデルソル、シチリア島、ドミニカ共和国、モルディブ(3回)、シャルメルシェイク(紅海)、エルグーナ(紅海)、オーランド(ディズニーワールド)、グランドケイマン。

ヨーロッパ域内は車で沢山行きました。

『家族のために仕事する!!』って考え方を改めたから、沢山想い出を作れました。

思い出のパワーは強烈です。

障害を持ってからでも想い出作りはできます。

LCCにも乗れました。

おかげさまで思い出を重ねていけます。

皆様優しくて泣けてきます。本当にありがとう。

片手で創作するということ〜目覚めてからの試練その3

痛み

霧島の病院に入院していた方の中に、痛みを訴えていた方が多くいらっしゃいました。

ジンジンとか、キリキリとか色々な表現をされていました。

妻は痛みが全くなくて。

後でわかるのですが、単純に出血が多くて広範囲に神経がやられてしまったために、痛みを感じなかったのです。

痛みが出なかったのではなく、痛みを感じなかった。

軽度であればリハビリを開始して神経のバイパスが出来上がって、繋ぎ替えが起こります。

その際に繋ぎ間違えが発生して、神経過敏や感度高すぎ現象が起こるのです。その痛みを脳が記憶して、痛み信号に晒せれ続けると信号が来なくなってもリセット出来なくなる。最悪のスパイラル状態。

だから周りの人たちは痛みを訴えていた。

妻は繋ぎかえには程遠い距離と範囲の神経損傷があったため、その時は痛みが出なかっただけでした。

もちろん出血場所によっては痛みが残らないケースも沢山あります。

視床下部というところに出血がかかっていると、厄介な痛みが出やすくなるのです。

なんて偉そうに語っていますが、その時は全然知らなかった。

『ママは痛くなくてよかったね』なんて言ってました。

こんな状態なので、リハビリの効果が出ないんです。

毎日夕方になると自主練習までして頑張ったのですが、右手や指は一向に動く素振りを見せてくれませんでした。

痛みは霧島を退院して、川平先生の前の院長だった田中先生が週1回来てくださる大分県竹田市の大久保病院に通い始めてから1年ほど経ってからのことです。

原因不明の痛みを訴え出して、リハビリ出来ないくらい痛みが強くなって。

痛みは恐ろしい。何も出来なくなるし、何もする気が失せる。リハビリも何もかも。『どんな手段を使っても改善しなければ』そう思う。

この種の痛みは構造上『ロキソニン』『イヴプロフェン』といった周知の鎮痛剤が全く効かないんです。

テグレトール、トラムセット、リリカ、全く効果を示さないまま量が増えて薬漬けに。

リリカ(イメージ画像)

副作用は半端なくやってきて、目眩なんか半端なくて突然倒れ込む。目眩でですよ。

ある日、薬をやめることを決意。

効かないんだから副作用がなくなるだけ良いよ、って考えました。

リリカ400mgを相当長い期間服用してきたところから、一気に抜こうとしたわけで(先生に言えなくて〜絶対に真似しないでください。自己流は危険です)、テレビドラマで覚醒剤を抜く時みたいな幻覚は見るは、突然泣き出すわ、死にたくなったり。

常に誰かが近くにいる状態を切らさないようにしていました。

痛みの度合いを測定する画期的な測定器は存在しません。

だから無知な医師達に、痛みを抱える患者は傷つけられるのです。

流れ流れて、東京医大の有名な漢方医にかかった時のこと。

とりあえず痛みの強さを測定しようということで、擬似的痛み測定みたいなことをやったのです。

片手に電気を流して、電流を上げていきます。今の自分の痛みと同じくらいの辛さになったらボタンを押すといった簡易的なもの。

でも、痛みの強さを数字にしていただいたのは有難いことでした。

『我慢できない歯痛が、左半身全てにあって、24時間常にある状態』だそうです。

『男だったら我慢できない痛みの強さ』と表現されていました。

平成天皇の心臓バイパス手術を成功させた順天堂大学の天野篤教授が2014年に上梓された『熱く生きる』の最後に書かれていた一説が私の心を打ちました。

臨床医が最優先でやらなければいけないことは『患者の痛みを取除いてあげることだ』と。

不治の病かもしれないし、現代医学では対処できない難病かもしれない。でも、痛みをとってあげる最善の努力はできる。それが最優先だ。みたいな事だったと。

今、私の手元にこの本がないので少しニュアンスが違うかもしれませんが、内容は間違っていないと思います。

それ程痛みはQOLを低下させるのです。

片手で創作するということ

書きたいことが多すぎて、文章がどんどん出てきてしまうので、まだまだ続きます。

でも、長きにわたって痛みのために何もできない、何もしたくない状態が続いたため、自分の存在価値さえ見いだせないどん底の生活が続きました。

痛みの強さは今も同じですが、色々な面から希望が持てるようになってきて、何か大好きなこと、喜んでもらえることをしたい。

そう思えるようになったのです。

どんな物でも、誰かに喜んでもらえると自分の存在価値を見出せるのです。

痛みは常にありますが、好きな事に熱中している時間は忘れられる。

片手でも、痛くても、効率が悪くても作り続ける理由は、自己肯定そのものなのです。

自己肯定なんて一言で片付けたくないです。

片手しか使えないからこそ作り出せる何かを見つける旅でもあるのです。

『片手で創作するということ〜目覚めてからの試練』はもう少し続けさせてください。

痛みで心が潰れている頃、妻の誕生日に大好きなジャンポールチェボーさんにお願いしてサプライズケーキを作っていただきました。

六本木のジャンポールさんのスタジオ(今は下総中山)から大分の当時の住まいまで運びました。

驚きで顔がぐちゃぐちゃでした。

片手で創作するということ〜目覚めてからの試練その2

鹿児島大学霧島リハビリテーションセンター

大学病院は紹介状がないと原則受け入れてくれません。

風邪をひいても大学病院にかかられてしまっては、本当に大学病院を必要としている人に医療が行き渡らないからです。

アメリカの病院から日本の大学病院に紹介状を書いてもらうことはできません。

なので、最初は難色を示されました。

今迄の症状、治療内容、各種画像をもらって、それを持参する約束をして何とか外来での診察が許されました。

ただし、川平先生の診察を受けるに値するのかを判断する診察。

大分県の妻の実家近くに借りた古民家に子供達を置いて、車椅子を積んで霧島に向かいました。

朝早い診療だったので、霧島温泉に1泊。

この病気になってから高血圧になってしまって、薬を飲んでも150を超えることが多くて心配していましたが、一時的でも温泉に入ると血圧が120くらいに下がる。

本当に久しぶりに見た安心の数字でした。

豪華な食事が出されましたが、何を食べたのかはあまり覚えていません。

『何とか受け入れてほしい』そればかり考えていましたから。

霧島リハビリテーションセンター(2018年、本院に機能移転)

退院してみれば4ヶ月も入院させていただいていました。山を降りた鹿児島空港近くのマンスリーアパートを借りて通って、毎日朝から晩まで付き添いました。

作業療法、理学療法、言語聴覚士による言葉のリハビリ、視野欠損のリハビリ、磁気刺激治療法、装具審、自主トレーニング等々。

日本全国から作業療法士や理学療法士が学びにやってくる病院でした。

毎夕行われていた川平教授による講習会。休みの日にも病院に出てきて指導にあたられている。熱い先生なのです。高校時代ラグビーで花園に出たそうです。

私は子供達のいる大分県と行ったり来たりしながら、必死にやってました。無収入の不安に押しつぶされそうになりながらでした。

『なんとかなるさ』

まずは家内の事だけを考えるようにしていました。

頭フリーズによる失敗

ひとつ申し訳なかったエピソード。(まだアメリカにいる時の話)

時間が大きく遡ってしまいますが、家内のことばかり考えていてやっちまった失敗の話です。

倒れたのが1月17日で、リハビリ病院を退院したのが3月でした。その後自宅に戻ってPTの先生が来てくれてリハビリ。

私はというと、大きく穴を開けた仕事の繕いをしながら、日本でのリハビリや住まい探し、100枚以上あった請求書の処理。

救急車1,000ドル(約10万円)とか。装具代3,000ドル、最初にかかった病院(転院前の入院なし)代3,500ドルとか、

まあ、入院していた病院の詳細合計(値引き前450,000ドル)を見てしまっていたので麻痺状態でしたけど。

何はともあれ客観的にものを考えるなんぞは不可能状態。

子供達も傷つき苦しんでいたことは分かっていたけれど何もできずでした。

忘れもしない4月21日。

例によって支払いやら、薬の調達やら、室内リハビリやらで頭がいっぱいの夜に娘が急に泣き出しました。

堪えきれずに泣き出した感じ。

聞いてみると娘の誕生日。

すっかり忘れていて、娘も理解していたようなのですが悲しくなってしまったようで。

辛かったのは家族全員なのに、父親失格!!

急いで娘を連れて近くのモールに行き、ほしい服を沢山買ったのでした。

何かの縁でしょうか?

霧島リハビリテーションセンターに関しては、3つ不思議な事がありました。

偶然ではないと思いますが。

ひとつ目は、家内の従兄弟はすごく腕の良い美容師で、六本木でバリバリやっていた人なのですが、鹿児島の女性と結婚が決まって、その方の実家で暮らしていると聞いていました。

なんと、私が借りていたマンスリーアパートの目と鼻の先。

鹿児島って広いのに、こんなに近くだったなんて。

空港近くのホテルで結婚式が執り行われた時、病院の許可をもらって外出して祝福に駆けつけました。

六本木でバリバリの美容師でしたから、この町では有名だったようで、病院の看護師の方や、言語聴覚士の先生と奥様も常連様でした。

家内の髪を切りに病院まで来てくれて。

こんな近くに引き寄せられてきたんだと、驚きました。

ふたつ目は、脳卒中後疼痛(この話も沢山あるので書く予定です)に悩まされて、ドクターショッピングや、漢方医、怪しい宗教や、次からつぎへとやってくるMLMの紹介、整体、痛みを中和する電極挿入、YNSA(頭に打つ鍼)、気功etc。

少しでも良くなる方法を求めて探しまくっていたのですが、YNSAと気功は相性が良くて長く通っています。

YNSAに関してはそれ専用に書きたいと思っています。

気功の先生は目が見えません。

ある方の紹介を受けて通っていました。

目が見えなくなってから自分の力に気づいたそうなのですが、行く宛もなく日本中を彷徨って、何気なくたどり着いて気功の技を取得した場所が霧島だとおっしゃるのです。

その場所を調べてみると、霧島リハビリテーションセンターのすぐそば。

私が病院からアパートに帰る途中に買い物をしていた小さな雑貨屋さん(一応スーパーと書いてあった)の裏。

何じゃそれ?って感じでした。

引き寄せられてるでしょ。

3つ目はつい1年前のこと。

時は流れあれから10年近く経ってしまって。

私が通っていたジムにパワープレートが導入されました。

何が良いんだかいまいち分からない。ただのバイブレーションマシン?

ある日、時間ができたのでジムに行くと、『2時間後にパワープレートの担当者がプレゼンにきますよ』って教えてくれて、何気に家内に良いのではと思った私は『会員ではないですが、家内に聞かせたい』というと、快くOKしてくれました。

担当の方は一生懸命パワープレートの良さをアピールしてくれて、沢山の医療関係者の推薦もあるのですと。家内に沢山体験させてくれて。

下記はアフェリエイトではありません。効果を実感したから載せています。

先生ごとにパンフが作られていて、何とその中に川平先生がいらっしゃいました。

渋谷で川平先端リハラボというパーソナルリハビリみたいなことをされていました。

早速予約をして、川平先生にお会いしてきました。ギリギリコロナ前の出来事です。

今我が家にパワープレートがあります。

ピンポイントで目の前に現るんです。

色々な偶然が。

偶然ではないと思ってますが。

まだまだ創作に行きつかないですが、今日のところはこの辺でおしまいにいたします。その3に続きます。

昨日と同じ動画をアップさせていただきます。

片手で創作するということ〜目覚めてからの試練その1

目が覚めた後

オハイオ州トレド、セントヴィンセント病院。

死を覚悟するほどの長い昏睡状態から覚めた妻は、ICUを出て一般病棟に移って安定を待ちました。

どんなリハビリをするべきなのか、病院側の準備が始まりました。

失語症で言葉が全く出てこなくなっていたのと、私の言うことも全く理解できない状態でした。

系列のリハビリ系病院から派遣されてきた理学療法士(PT)が、寝たきりの妻をベッドの上に座らせようとしました。

右半身が完全に麻痺していたので体を支えることができず、崩れるように右側に倒れ込んでしまいました。

妻の目から大粒の涙。

不安な気持ちを悟られまいと努めて笑顔で接していた私も、耐えきれずに一緒に泣いてしまいました。

辛さを言葉にすら出来ない妻に感情移入して、大人気なく泣きました。

入院中の日々

病院に併設された家族用アパートメントに子供達と滞在して、毎日毎日妻の元に通ったのでした。

隣にヘリポートがあって、毎日毎日ヘリで患者が運ばれてくる。

ヘリの音を聞くたびに、運ばれてくる患者の家族の気持ちを思って、心がザワザワと揺れる。

アパートメントから病室に渡る長い廊下の横に教会がある。

入院患者の回復を祈る家族がいる。

その先に救命があって、5台以上の救急車が常に止まっていたり、患者を降ろしていたりする。

その先には入院している子供達のための学校があって、一瞬ほっこりする。

そして妻の待つ病室へ。

運ばれてから3週間で退院して、系列のリハビリ施設のある病院に転院。

車椅子にも乗れず、ストレッチャーに乗せられて病院の救急車で移動。

私の頭はずっとフリーズ状態だった気がします。

一変した人生

転院したリハビリ病院で1ヶ月の入院を経て、在宅リハビリに。

車椅子に乗っての退院でした。少しだけ回復。

失った言葉は数パーセント回復。

嚥下障害がひどくて水にとろみをつけないと飲めなかったのも克服。

入院中につけた胃ろうは外されないまま、大量の薬と共に自宅回復へ。

何もかも辛かったけれど、言語聴覚(ST)が英語で行われる事は痛々しくて見ていられなかった。

後遺症で日本語さえも全て吹っ飛んでいたのだから、英語やフランス語が出る筈もなく時間だけが過ぎる感じ。

遠隔での指導などまだまだの時代。

八方塞がりの状態は自分達で何とかするしかなかったのです。

フリーズしていた頭が少しずつ溶け出して、日本でのリハビリを強く意識して調査開始。

家内の生まれ故郷が九州なので、九州で良い病院がないか?

その頃少しだけメディアに登場していた鹿児島大学の川平教授が提唱する【川平法】という脳卒中からのリハビリ。

何度も電話をして取り次いでもらって、「入院できるか保証できないけれど、診察を受けに来なさい」っておっしゃっていただいて。

家族会議(妻は何を喋っているのか理解できなかったから実質3人で)で以下を決定。

  • パパはアメリカでの仕事を諦める
  • 日本でどうやって食べて行くか不安だけど今はママ最優先
  • ママの実家の近くに部屋を借りよう
  • 長男は日本で言う高校1年、娘は中学1年で充実していたけれど日本に転校
  • 鹿児島大学附属霧島リハビリテーションセンターに入院させてもらう(目標)

こんな感じで、家族で力を合わせてママ優先の人生を選択したのでした。

医療費が凄ーく高くて、ん千万円。手出しがね。残り僅かな所持金を手に帰国をしたのでした。

今日はここまでにしておきます。弁当作らないと。

マスクの製作風景〜片手でゆっくり作ります

【その場凌ぎ】と【とどめを刺す】の決定的な違い

どんなことにも当てはまる。

法則でもなんでもない当たり前。

恒久策と応急策の違い。

なのに若い頃はこれがわからないんですよ。

少なくとも私は出来なくて苦しみました。

何か問題が起こると「十分に気をつけるよう徹底いたしました」っていうあれ。

気をつけていなかったから起こったのではないのです。

問題の素を事前に潰さなかったから大問題になってしまっただけで、現場が気をつけてもまた起こるんです。

当たり前です。問題の真の原因がそこに居続ける限り、また起こります。

人生でも、仕事でも、人間関係でも、病院でも、勉強でも、家事でも、何でもかんでも同じです。多分。

苦い経験

生産機械設計とか生産技術の仕事をそれなりに(いまいちだったかな)やっていました。

ある時その会社がヨーロッパに工場を作ることになりました。

今では1兆円企業です。

ドイツに小規模なカセットテープの後工程(組立、包装、出荷)はあったのですが、ルクセンブルグに完全な生産工場を作ることになったのです。

カセットテープと、VHSビデオテープの工場でした。

プロジェクトに入って、結果的に結婚して赴任しました。

700名以上が働く大きな工場を一気に作りました。

聞こえはとてもいいけれど、日本からやってくるメンバー以外は全て未経験者ってことですよ。それは大変な日常でした。

月400万巻くらいのVHSを生産できる工場でしたが、なかなか安定生産にはなれませんでした。

チェーンの緩みとかネジの緩みとか、ベテランになったら当たり前のこともわからず、発生する問題をとりあえず治して生産する毎日でした。

来る日もくる日も同じような問題でトラブル発生。

ネジが緩んで問題が発生するなら、緩まないようにすればいいんです。

振動があるならそれをなくして、万が一緩む環境になっても緩まないようにすればいい。

ネジロックで固定したり、回り止めのピンを打ったり。

ユニットが振動で動いてしまうのなら、振動を抑制してから動かないようにテーパピンを2箇所打つ。

動かなくなるし、メンテナンスなんかで外してもあっという間に元の位置に戻せる。

当たり前のこと。でも知らなかったし、ゆっくり考えることもできなかった。

恥ずかしい過去です。

乗り越えた先

安定して生産できるようになったら、次は増産です。

1.2秒に1個出来上がる組み立てラインを、0.9秒に1個組み立て上がるラインに改造する。

最大加速度を0.5g以下に抑えながら工夫して安定化させる。

F=maだから、軽量化と加速度を下げてやれば負荷が減る。その理論を応用して改造する。

楽しかった。苦しんで学んで良かった、そう思いました。

最後は月540万巻まで生産できるまでになって、作り続けました。

その後はMDプロジェクト。

こんな私に任せていただいた。嬉しくて。

全ての生産機械をヨーロッパで調達することになって、忙しく楽しく働いて。

そのころは「その場凌ぎするなよ!!」なんて偉そうに言ってました。

右のMDはヨーロッパ限定モデル。

左は、日本に帰るときにチームのみんなが作ってくれたオリジナルMD。

自分たちで作ったスクリーン印刷機で家内と私の姿を印刷してくれた宝物。

振り返るとびっくり。カセットテープもVHSもMDも無くなっている。

でも、【その場凌ぎ】を絶対にしないで【とどめを刺す】ことの大切さを学んだ。

私のもう一つの宝。

ゾッとした

当時のヨーロッパ社の社長、日本での肩書きは部長だったSさん。

ヨーロッパの成功を受けてトントン拍子で出世して、親会社の社長に。

日経新聞に大きく取り上げられた時の記事。

「毎日工場を視察するけれど生産できていない。運ぶ荷物がないトラックの数をみてゾッとした」って書いていた。

ごめんなさい。私の仕業です。

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