タイミングは重要〜早すぎると最悪!

 恋はタイミング

急にマインドセットなんて言い出すから、皆様ドン引きの様子です。

ごめんなさい。

でも、私たちの思いを実現する為に、本気で考えている事実と、実現できる経験や能力、人脈なんかをわかっていただきたい。

皆様のお力をお借りしたいのです。

『タイミングは重要!!』

そんなことはわかっている!!

でも、本当にわかっていますか?

下記の話、似たような経験を持った人は多いのでは?

 私はA子ちゃんが好きで仕方がない。
 覚悟を決めて告白をします。
 返事はNO。
 『お友達としてしか考えていない』
 大失恋です。
 2年後、私には別に好きな子ができて、想いが届いてお付き合いを始めています。
 A子ちゃんが私に告白をしてきます。
 そうなんです。
 相思相愛なんです。
 タイミング以外は。
 結局二人は縁がなかった。
 別々の人生を歩むのです。
 好きだった事実。
 告白された事実を胸に秘めたまま。 

再会

2003年、私は友人と二人でICTの会社を起こしました。

私はヨーロッパから帰国して、既に独立していました。

社長を引き受けたその友人は、副社長として率いていた会社を1999年に開設された東証マザーズに上場させた人物。

何故、ただの機械系エンジニアでしかなかった私が、こんな人物を知っていたのか?

遡ること時は1987年。

テクニカルセンターで戦力外通告を受けた(たぶん)私は、大分県にあった工場に生産技術職として赴任しました。

一方友人は、高専を卒業してこの企業に入社して、たたき上げで生産技術にのし上がっていました。

私と同い年。

大学出たというだけで生産技術をやっている私と、力を認められてのし上がってきた彼との差は歴然でした。

私が国内出張すら一人でさせてもらえない頃、彼はアトランタの工場に出張するほどの差。

それでも、グリスで真っ黒になって、二人一緒に生産設備の前で改善や改造を繰り返して経験を積んでいったのです。

2度目のアメリカ出張から帰った彼は、興奮を抑えられない様子で私に小さな箱を見せてくれました。

macintosh plus

昔のMACです。

NECが最初の98ノートを発売した頃でした。

カーソルで文字を選択して書類を作るのが一般的で、マウスはほとんど使わない時代。

凡人の私にはmacintosh plusの素晴らしさに気づくことが出来ませんでした。

翌年、キヤノン販売がmacintoshの正規ディーラーになることが発表されると、あっさりと会社を辞めてキヤノン販売に転職したのです。

一部上場企業を辞めるなんて、当時の私の選択肢にはありませんでした。

macintoshのクラブを通じて活躍していた彼は、サンリオがハーモニーランドを作る際に、システムの構築をするチームの要としてヘッドハンティングされました。

私はというと、欧州に設立する現地法人の立ち上げメンバーとして欧州事業部に移籍します。

各々の人生を歩み、時は2002年。

彼の会社が東証マザーズに上場を果たします。

既に独立していた私は、お祝いに駆けつけました。

それが再会!!

早すぎたタイミング

それから約一年。

二人が注目していた世界がありました。

Second Life

ご存知でしょうか?

Second Life Logo.svg
Second Life(セカンドライフ)は、3DCGで構成されたインターネット上に存在する仮想世界メタバース)である。
ユーザーは現実の世界とは異なる生活を送ることができる。運営は、アメリカサンフランシスコに本社を置く
リンデンラボ(Linden Lab) 社が行っている。
公式サイトでは、「ユーザーによって創られた、インターネット最大の3D仮想世界」、「出会う人がみんな実在の
人物のように見え、訪ねる場所はすべて、あなたとまったく同じような人によって構築されている 3 次元の世界」
と紹介されている。 
〜 wikipedia.orgより引用 〜

インターネットに仮想空間があって、別世界が広がっていました。

土地を買って建物を建てて、世界中の人たちとバーチャルでコミュニケーションを取る。

可能性しかない。

そう考えた二人は会社を設立します。

時代の最先端に躍り出た感じで、雑誌やテレビに取り上げられて一躍有名に。

気持ちの中では株式公開が頭をチラリ。

ベンチャーキャピタルも声をかけてきました。

アバターという言葉はこの時代に生まれたもの。

でもそこまで。

思った程セカンドライフ人口が伸びず、一過性の流行りと化したのでした。

この技術が爆発的に認知されたのは、ポケモンGO。

そうなんです。

10年以上も早すぎたんです。

ネット環境がお粗末すぎた当時は、3Dは重すぎて楽しめなかった。

ハイパーネットの板倉雄一郎さんをご存知でしょうか?

ご存知ないかたは、ぜひググッてみてください。

同じ感じです。

ちなみにこの会社、今もしっかり存在しています。

経験は神

この会社の現在は、LMSのリーディングカンパニー。

Learning Management System

教育のサポートシステムです。

大学の授業をいつでも受けられて、ゼミのメンバーでコミュニティーを作って教え合って、レポートを評価し合って、他の大学と繋がって、ビデオシステムで受けた授業はどこで一度止めたか?どこまで受けたのか?テスト成績の分析や、レポート内容の分析…

AIを活用して次世代の教育を提供する。

3Dでバーチャルのキャンパスを構築してリアルに近づける。

セカンドライフで培った技術がフルに活用できる。

過去の経験は、新しい経験を後押ししてくれる

パッチングワーカー🙃

日本の私学では最高峰のW大学を始め、最高学府のT大学、T工業大学、M大学….T理科大学やM学院大学なんかも手がけさせて頂いています。

近頃は地方の国立や私立でも導入が加速。

コロナで補助金が出ているのです。

今年なんて、2月に決定して3月末までに納品なんていう、無茶な補助金まで登場。

お役所は、今期の予算でなんとかしたいのでしょうね。

にわか業者には絶対にできない。

勉強している時間も与えられないから、実績のある会社に頼らざるを得ないんです。

国内だけにとどまっている気はさらさら無いのですが、今は特需だから頑張るしかない。

それでもICTのメリットを国内だけで享受するなんてガラパゴス。

世界中の大学と提携して、世界中のアプリ会社と連携しています。

セカンドライフでは早すぎて地獄を味わいましたが、諦めなかった事で別世界が広がりました。

それでも、リアル授業に拘る日本の学校と官庁。

諸外国から大きく離されていた環境が、コロナで一変しました。

競うようにLMSの導入が続いています。

タイミングは重要〜早すぎると最悪

でも、諦めなければ最先端

パッチングワーカー🙃

LMSを障害者の世界にも応用しようと考えています。

VRという言葉。

今でこそ沢山の人々が知っています。

セカンドライフはVRの魁。

Zoomでは伝わらない臨場感は別格。

見ていてください。

LMSとVRを障害者の世界に応用します。

私たちの経験が、必ずや役に立つと信じています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

Self-introduction

Hello.

I am Patching Worker.

My life is full of patches.

Therefore I am Patching Worker.

I’d like to write for the person who is worried about the future, who is crushed by money, who is hitting a big wall,who has head freezes and be able to think of anything, who hate to work ,who want to quit their job but are afraid to step forward, who feel that their life isn’t going well anyway.

Why do I take such extra care?

Let me introduce my past life.

  • Born and raised in a salaryman family, I have lived my life on the rails that have been generally accepted.
  • I went to a cram school without feeling uncomfortable, enrolled in a public high school, and after that I enrolled in a university of engineering, although and joined an excellent company listed on the First Section of the Tokyo Stock Exchange as an engineer.
  • I was assigned to a local factory and had a lot of fun working.
  • Shortly before the age of 30, I was selected as a project member to expand into a factory in Europe, and I was transferred to Europe as the first team.
  • I had a hard time because it didn’t go so well due to the first team (there was no experienced person in the factory) also I didn’t have so much experience handling new factory
  • I couldn’t go home because the production didn’t go well.I made my wife feel lonely.
  • Just as the word “three years on the stone, I managed to get through and the work became fun and unavoidable because I worked hard for three years with the intention of dying.
  • It’s been 10 years since I participated in the introduction of technology, which is said to be the first in Europe and the first in the world.
  • I was also blessed with two children. Both gave birth locally.
  • In the latter five years of the ten years in Europe, I participated in the many projects, had more opportunities to get to know local CEO, and had more close interaction.
  • I grew up being told to join a big company, and I was happy with the environment at that time, but after interacting with successful CEO and getting advice, I became to aware of to be independent.
  • Ten years later from arrived in Europe, we returned to Japan at the age of 40 and became independent as a technical consultant.
  • After that, a big job came in and I moved to the United States with my family, but only two years after w emoved, my wife collapsed due to severe cerebral hemorrhage and fell into a coma for four days.
  • Life was saved, but severe right-sided hemiplegia, severe aphasia, dysphagia, and visual field defects remained as sequelae.
  • I was depressed by severe paralysis that I couldn’t sit in a chair and aphasia that I couldn’t communicate with.
  • The medical expenses charged to the hospital (30 million yen or more), the monthly medicine fee (about 120,000 yen), the rehabilitation fee (about 300,000 yen), and the dilemma of having to leave a painful wife at home to work My body and soul have become tattered.
  • I held a family meeting and decided to quit my job and return to Japan.

I would like to write a blog mainly from here.

Have I ever wanted to die? There are many times.

But it’s okay, because I’m here now,.

I might be able to offer you something that makes your life fun.

Thanks

Patching Worker

結婚して杉並区堀之内の小さなアパートで暮らしていた私の父と母。

高円寺駅から歩いて15分くらいだったといいます。

環七通りが建設中で、都電が走っていたそうです。

都電の軌道をそのまま地下に埋めたのが、東京メトロ丸の内線。

営団地下鉄と呼ばれていました。

が、当時はまだ地下鉄はありませんでした。

近くの妙法寺というお寺の境内で撮られた、ベビーカー(当時は乳母車といいました)に乗せられた私の写真があります。

月曜から土曜日まで、毎日毎日夜8時まで残業して頑張っていた父。

技術者として働いていました。

私は新宿にある東京医科大病院で産声を上げました。

働け働けの時代です。

父は私が生まれた時も働いていたそうです。

すでに二つの縁があるのです。

一つ目は、家内がアメリカで倒れて帰国して、脳卒中後疼痛で苦しんでペインクリニックにかかって、縁あって東京に引っ越して、ペインクリニックの先生が書いてくれた紹介状の宛先が『東京医科大病院』

不思議な気持ちで自分が生まれた病院の門を潜ったのです。

二つ目は、杉並区堀之内。

私が生まれた時に住んでいた街。

父は埼玉県朝霞市に家を買い、私が2歳の時に引っ越したため、私の記憶に高円寺はありませんでした。

両親に高円寺の話は聞かされていましたが、高円寺の土を踏むことはありませんでした。

通っていた大学は新宿区にあったのにです。

家内が倒れて、家内の実家のある町に引っ越して、無職でリハビリをサポートしていたことは書きました。

https://keiken.blog/2020/11/21/example-post-3/

そのあとナポリピッツアの店を開き、家族総出で頑張っていました。

経営も安定して、なんとか食べていけるようになった頃、ある方を通じてメッセージがもたらされます。

ヨーロッパから帰って独立した頃に、私の技術者としての腕を買っていただいてくれていた社長様からでした。

『ひと月に何回大分と東京を行ったり来たりしても良いからうちへこい!!』

というものでした。

知らなかったのですが、その会社の所在地は杉並区堀之内でした。

こんな縁ってありますか?

妻の病気をきっかけにして、私は自分の原点に戻ることになるのです。

技術者

私が若い頃、父親の仕事が嫌いでした。

毎日帰るのが遅く、一緒に晩御飯を食べた記憶は数えるほどでした。

航空機のエンジンを作る父の会社は、超有名な会社です。

工場見学に連れて行ってくれても

『油臭い場所で嫌だ!!』

なんて、生意気な口をきいていました。

パイロットになりたくて頑張りましたが力及ばず。

気がついてみれば父と同じ機械系技術者になっていました。

気がついてみれば、油の匂いが大好きになりました。

気がついてみれば遅くまで仕事をしていました。

4年前に心臓の大手術を経験した父。

隣で心配そうに支えた母。

社会人になってから5年は九州、10年はヨーロッパ、5年はアメリカ(家族は2年)と、全然両親の近くにいなかった親不孝者。

今生きてくれている幸せ。

どんどん小さくなっていく両親(Rumikoさんの受け売りです)を心配する毎日。

毎週末は実家に通います。

家内を一人にする不安はあるけれど、今しかない。

片足が痛くて歩き方がおかしい母。

妻を見続けて、川平先生直々にリハビリを学んだ私。

このために生きてきた人生なのかと不思議に感じる今日この頃。

宇宙なんて大きなことは言わないけれど、繋がっている。

たくさんの愛情を受けて育ち、たくさんの愛情を注ぎ返す。

家族にも両親にも。

生きていてくれてありがとう。

妻に、父に、母にそして子供達に捧げます。

素晴らしいシナリオを描いてくださって感謝します。

神様ありがとう

試練を乗り越えるか逃げるか〜心労で髪の毛真っ白の巻

今日はリビング内の引っ越しをしました。

妻の作業机の位置が床暖房から外れていて、寒くて集中できないから。

ほんの少し前までは、床暖房だけで部屋全てが温まったのに、流石に本格的な寒さには対応できませんでした。

私の仕事机は小さな電気ストーブで温めるから動かさずに、温々とぬるま湯に浸かっている本棚を妻の机がある場所に移動して、入れ替えました。

netdedusselさんにお送りするお手玉の製作も暖かい環境で進められます。

netdedusselさん、お待たせして申し訳ありません。今しばらくお待ちください。

午前中目一杯作業したので、ランチはささっとアーリオオーリオペペロンチーノ。

茹で時間7分プラス1分で出来ました。

ポイントは潰したニンニクと鷹の爪で風味を纏わせたオリーブオイルと麺の茹で汁の乳化。

茹で上がりにドンピシャで乳化が完了するように時間を合わせます。

まろやかに、そして香りが引き立ちます。

脂っこさが消えてなくなります。

乳化剤を使わない乳化なので、分離する前に食べ終わります。

プチトマトが沢山あったので、アーリオオーリオペペロンチーノロッソになりました。

ボンゴレロッソアサリ抜き^ ^

ボロボロでしたよ

『ブログ〜人生の宝物』では、私たちの歴史を意図的に時間を飛ばしながらご紹介しています。

古い順から先入れ先出しで紹介してしまうと、朝ドラの第1週のように『つまらないかも』って思わせてしまいそうで。

書きながら記憶がどんどん蘇ってくるので、後から内容を挿入するには小説調では難しい。

いきなり壮絶なページから私達のブログにお越しいただいて、コメントくださる方々はとても驚かれた様子です。

読んでくださる方々のショックを和らげる目的もあって、内容に緩急を組み合わせて読んでいただければと思っています。

楽しい思い出も数え切れないほどありましたからね。これからもですけど。

初めて私達のブログにお越しくださった方は、全部読んで欲しいですが、とりあえずサクッとこの3編を読んでいただけるとありがたいです。

https://keiken.blog/2020/12/10/片手で創作するということ〜目覚めてからの試練/

https://keiken.blog/2020/12/11/片手で創作するということ〜目覚めてからの試練-2/

https://keiken.blog/2020/12/11/片手で創作するということ〜目覚めてからの試練-3/

『私だったら耐えられないかも』みたいなコメントを頂きます。

読んでいただいて、自分に置き換えて想像してくださるのはとても嬉しいですし、ブログを書く張り合いにつながります。

正直申し上げます。

私の場合、挫けっぱなしの人生です。

家内が倒れる前も倒れてからも、試練が訪れるたびにへなへなになってました。

ぐいぐい力強く前に進んでいるわけではございません。

チャレンジして、挫けて、チャレンジして、挫けての繰り返し。

42歳で半身麻痺になった妻は、病気のせいで髪の毛真っ白です。

染めてますけど。

私は時を同じくして、心労で髪の毛真っ白です。

グレーに染めてますけどね(^.^) 

白髪が目立つようになったというレベルではなくて、真っ白です。

真っ白になった時、人に言われるまで気が付きませんでした。

それくらい自分を見つめる余裕がなかったんです。

王妃マリーアントワネットが死刑を宣告された時、ショックで一夜で白髪になったという有名な逸話があります。

一夜はあり得ないですが、本当にあるんです。

かなり山あり谷ありの人生を歩んでいるので、生半可なことではへこたれない自信みたいなものはあるのですが、何かが起こるたびに『今回は乗り越えられないかも?』って思います。

『何故、自分に降りて来る試練の大きさが毎回大きくなってるわけ?』

そう思うわけですよ。

でも当たり前なんです。

試練って、乗り越えてしまえば次は試練に感じない。

自力であっさり越えられるからです。

逃げてると、毎回毎回小さなことに躓いてしまうわけです。

偉そうに言っている私は、逃げなかったわけでは無く、逃げられなかっただけですけどね。

苦労は買ってでもしろ??

買うわけないでしょ。

成長を早めたいから苦労させてくださいって?

あなたは天才です。

頭がフリーズ

試練が立ち塞がると、私の頭がフリーズします。

客観的にものを見る事ができなくなる。

目の前の問題しか見えない。

本当に不器用です。

結果的に乗り越えられているから経験値はかなり高くなるので、悪いことだけではないのですが、随分と遠回りしながら試練から抜け出すこともあります。

痛みが大きすぎると耐えられないから、人間は大きな傷を負ったりすると気を失うように出来ていますよね。

それと同じなのかな?フリーズする事実。

精神的ショックから目を逸らす意味で。

神様からすれば、私に試練を与えているのに、したたかに、ずる賢く避けて通ったら意味がない。

経験しろ!!

って言われているのだと、最近は諦めてフリーズした頭と付き合っています。

いらん知恵を絞らないで真っ向勝負で立ち向かうってことです。

頭が悪いのもかなりあるけれど、抜け出した後はアイデアもそれなりに出てくるし、先回りも出来るから、頭が悪いだけではなさそうだと。

神様の仕業だと(勝手に)思っています。

調子良い解釈ですけど。

皆様はどう思いますか?

自己紹介

皆様初めまして。パッチングワーカーと申します。ツギハギだらけの人生を歩んでいるので、パッチワークから名前をとりました。

将来に不安を感じていたり、お金に押し潰されそうだったり、大きな(そう感じる)壁にぶつかっていたり、頭がフリーズして何も考えることができなかったり、仕事が嫌で仕方がなかったり、仕事を辞めたいのにその先が怖くて踏み出さなかったり、何はともあれ今の人生が順調でないように感じている人のために書き下ろしたいと思っています。

そんな余計なお世話をなぜ私がするのでしょうか?私の今までの人生を少しだけ紹介させてください。詳しくはブログに書いてゆきます。

  • サラリーマン家庭に生まれ育ち、一般的に普通とされてきたレールに乗って人生を歩んできました。
  • 例えば、違和感も抱かずに塾に通い、公立のそれなりの高校に入学し、その後は勉強をしなかったけれど理系の大学に入学して、技術者枠で東証1部上場の優良企業に入社しました。
  • 決して優秀な部類ではなかったけれど、地方の工場に配属になってそれなりに楽しく仕事をしていました。
  • 30歳少し前に、働いていた会社が欧州に工場進出することになったことに伴ってメンバーに選ばれ、第一陣として欧州転勤が決まりました。
  • 転勤に合わせて結婚しました。
  • 決して優秀な部類でなかったことと、第一陣(工場には経験者がいない)であったことからクラクラするほど上手く行かずに苦労しました。
  • 家に帰れず、嫁さんには大変な思いをさせました。何せ、異国の地で知り合いもいない、言葉(フランス語)もろくに使えない(当時は)環境で一人ぼっちにさせたのですから。
  • 石の上にも三年と言う言葉があるように、3年も死ぬ気で頑張っていると何とかなってきて仕事が楽しくて仕方がない状態になりました。
  • 欧州初や世界初といわれる技術導入にも参加して、楽しく10年が過ぎました。
  • 2人の子供にも恵まれました。二人とも現地で出産しました。
  • 10年のうち後半5年はプロジェクトに参加して、現地の経営者たちと知り合う機会が増え、密に交流することが増えました。
  • 「大企業に入りなさい!!」といわれて育った私は、その時の環境に満足していたのですが、成功している経営者たちと交流して助言を貰うようになってから「独立」を意識するようになりました。
  • 10年後に40歳で帰国して、技術コンサルタントとして独立します。
  • その後大きな仕事が舞い込み、家族と共にアメリカに移住しましたが、移住してたった2年後に家内が重度の脳出血で倒れ4日間の昏睡状態になります。
  • 命はとりとめましたが、重度の右半身麻痺、重度の失語症、嚥下障害、視野欠損が後遺症として残りました。
  • 椅子に座っていられないほどの重度麻痺とコミュニケーションが取れないほどの失語症に意気消沈しました。
  • 病院に請求された医療費負担(3000万円以上)と、毎月必要になる薬代(約12万円)、リハビリ代(約30万円)、そして辛い家内を家に置いて働かなければならないジレンマに身も心もボロボロになりました。
  • 家族会議を開き、仕事を辞めて日本に帰国することに決めました。

ここから先をブログに描いてゆきたいと思っています。

死にたいと思ったこと?何度もありますよ。

でも大丈夫です、今ここにいるのですから、生きることが楽しくなる何かを提供できるかもしれませんよ。

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